2013年3月4日月曜日

春山満(59歳)          ・人生最大の不運から生き抜こう

春山満(59歳)    ・人生最大の不運から生き抜こう
春山満さんは介護医療のコンサルテイングやオリジナル商品の開発や販売などを経営している会社です。
父親の借金を抱えながら、不動産業を始めた24歳の時に手足の冷えを感じるようになり、26歳で難病の進行性筋ジストロフィーの診断をうけました。
難病が解ってからも、必死で働き、借金を返済し、不動産業が軌道に乗るまで4年を要しました。
33歳で日本初の福祉デパートを大阪に開き、その3年後 昭和66年に37歳の時に現在の会社を設立、福祉医療の事業を積極的に展開してきました。
独自の視点と着眼で数々のヒット商品を生み出してきました。
進行性筋ジストロフィーを抱えながら、介護医療に尽力してきた春山さんに人生哲学を伺います。

介護福祉ビジネスを開始して22年に成る。
望まれていながら提供されていない、そう商品を出そうと、解決した要素は本当に新しいお客様の喜びに替わったら適正な高価格でも、受け入れられると、利益と言うものを本当に大事に考えて来ました。
(国の補助、国の政策に左右されないで独立独歩で生きて行こうと想えば 健全な利益は非常に重要です。  (ですから利益の無い商品は開発しない)
24歳まで全く元気だった。 想像もしていなかった。 スポーツが好きでやんちゃだった。
スキーが大好きだったが、或る時、手足が冷たくなる、どうも走り方がおかしく、脱力感が有る。
25,26歳 でどんどんおかしくなってゆく。  
病院で検査を受けて進行性筋ジストロフィーと言う難病と判る。

先生が病名、症状を説明してくれた。  日本でも発症例が珍しいと言われる。
手足先の運動細胞だけを、全部中心に向かって崩壊させてゆく特殊なタイプだと言われた。
この細胞破壊は現代医学では原因、治療、すら解っていない難病中の難病だと言われた。
運動すればするほど、細胞の破壊は進行しますと、寝ていれば体力の減退でこれも破壊は止めませんと、運動しても駄目、寝て休んでも駄目、どうすれば良いんだと聞いたら、今日出来たことを出来るだけ、明日も続けてくださいと、但し 進行に従ってどんどん機能は奪われます。
呼吸と心臓の停止まで進行は止まりませんと言われて、流石に呆然とする。
車椅子になることも覚悟してくださいと、車椅子も永くは続かないと、やがて手も動けなくなって寝がえりもできなくなるかも知れませんと言われた。

其の時に病気のことを考えていなかった。  どうやって生きて行こうかと考えた。
22歳の時に父親が倒産して、借金取りが来て、家の査定をして、おろおろ泣く父母親 莫大な借金を残して、小さなアパートに越してきた。 
24歳の時に野心と夢だけを持ってガード下の1室を借りて不動産業をスタートしたばっかりだった。
頼れるところがなかった。 
父母は同情して守ってくれると思ったが、父親はあーっと、とんでもない悲痛な顔をして、母親は何でお前は、と泣いて (父親と母親の時の事は忘れません)
この時に決めた。 俺は絶対泣くまいと 後ろを向いたら絶望だけですから、開き直った。
俺が車椅子になるのなら、その前に車椅子を押してくれる社員を雇えば良いんだなと。
絶望だけれど、僕の手の代わりをして、会社と言うチームが作れればいいんだなと発想を変えた。
時間との戦いだと、車椅子になる前に後何年有るか判らないが、たどり着かないといけないと
前だけを見て、医療界と病院という社会と決別しました。

何故か言うと、呆然として、之からどうやって生きて行こうと思っている時に、このお医者さん達は
「3~6ケ月の入院と思って下さい」と言われる。 (断る気持ちは無かったが)
まるで死刑宣告に思われた。  どういった目的で入院するんですかと恐る恐る聞いた。
「貴方の筋ジストロフィーは日本でも発症例が非常にすくない。  
手先足先からこんなに綺麗に運動細胞を破壊してゆく、こんな筋ジストロフィーは見たことがない。
だから 克明な検査をさせて貰いたい」 その言葉を聞いてむかっとした。
「お断りやと、お前らの医者にとっては、おもろいサンプルの一つかも知れないけど、俺にとっては一生一回の人生と言うレースや、こんなところでモルモットに成って一生をおわるつもりはない
2度と来るか」と 捨て台詞を吐いた。(呆然としていたが、今から考えると彼らの常識が覆った)

自分の中でこう叫んだ。 無くした物は数えるな。 
残っている機能を120%活性化したら生き残れると
あれがない、これがない 昔はこうだった、ああだった。 
無くしたことばっかり考えて、被害者にしても、もしもとそればっかり数えて、そんなみじめな事はしたくなかった。  それだけです。
人間と言う者は本当は強いんです。  ユダヤの格言 「本当の希望は絶望の時に生れる」
豊かさと言うものはどれだけ私達を弱くしたか。 
私はこうやって、喋れる、考えられる、見える、聞こえる、感じる事が出来る。 
こんな素晴らしい可能性を私に残してくれた。
人と同じでは駄目で、人の2倍も3倍も磨かなければいけないと、私の無くした手足や補うところを補って貰おうとそうすると2人3脚、駄目だったら3,5人と、担いでもらったら私は生き残れるかも知れない。
こう思って絶望の淵から這い上がろうと考えてきました。
26~29歳と社会が私をたっぷりと鍛えてくれました。(世の中そんなに甘くなかった)
一つのチャンスが来たが、泥沼に巻き込まれて、裁判に引き込まれ、とんでもない莫大な借金、又
つぎ込んで、そこからさらに奈落の底に引き込まれて、その時に本当に世の中のいろんな仕掛けや生き方をこの身で学ぶことが出来ました。  
29歳の終わり 念願の大きな取引にたどり着いて、借金を全額返すことが出来て、念願だった社員を雇える事が出来た。

この時に第二の人生がスタートする。  
学生時代からスキーを教えた生徒の一人 約束したのが23歳の時27歳で結婚しようかと思っていた。  
難病に成って自分で飯を食えない。 そんな男が何が結婚なんだと、それでもいいといってくれた。
経済的に安定して、身の回りの事が整えられたら考えようと、自分のことしか考えられない身勝手な考えだった。  彼女は泥沼の中でも支えてくれた。
アパートで一人暮らしをしていて階段をあがれられなくなって、風呂にも入れなくなって、どんどん体力が無くなって、もうアウト寸前と言うところで、大きな取引に4年掛ってたどりついた。
神様からのご褒美かもしれないと思った。 
 
彼女の貯金も全部使ってしまっていた、彼女の父親も頑張れよと応援してくれたが、その父親からも借金をしていた。  全部返すことも出来て、結婚した。
結婚を切っ掛けに、ここからは本当に死に物狂いで働いて彼女を絶対に幸せにしようと思った。
この時に彼女がもう一度病院に行こうと言った。
周りは、私が難病と闘っていると言うが、私は戦っていません。
宿命って有るんですよ。  人の人智ではいかんともしがたい宿命はあるんです。
泣いて恨んで、そこからの宿命の解決は何にもないんです。
運命と言うものが有る。  運は動くもの、運命は宿るものではなく、掴めるものなんです。
努力して、真っ直ぐとそこに向かう時に運気はつかめる事が有る。

だから病院には行かなかった。 妻は病院に行こうという。 引き下がらなかった。
私は貴方を介護するために結婚したんではない、春山満という男が面白いから、貴方が何かやりそだから、貴方とだったら幸せになりそうだから貴方と結婚したと、貴方は仕事以外なにもしなくなった。 旅にも行きたい。 飛行機はどう乗れるのか分からない。
病院は不自由な人を専門にサービスしている所だから、あそこに行けば情報が有るはずだと。
30歳の時だった。  3時間待って居たら医者が友達みたいに言ってくれた。
看護婦にちゃんと言ってあるから大丈夫だと(子供に言うように言ったのでカチンときた)言った。
何と言う言い方をするんだと怒りは止まらなかった。 申し訳ありませんと言った。
白衣を着ただけで、偉そうにしてゆくのにおかしいと思った。
私はお客さんで医者も看護師もサービスマンだと思った。
常識の中に非常識がここには有る思った。
病院のベットの大半は年寄の長期入院 医療の必要がないのに帰れない。(家族は引き受けない)

病院は入院という名前で最後の最後の生活の場所で医療費で全額請求出来る。
病院の大半の売り上げは長期入院のお年寄り(まるでホテルのよう)  費用は約75万円
社会保険から75万円が入る 2万5000円(一日)  私はこの摩物を見た。(バブル期)
難病に成ってとんでもないビジネスチャンスを見つけたかもしれない。
究極のサービス業を作ってやろうと、それが私のスタートなんです。(福祉介護の世界に入る)
25年ひた走りに走ってきた。(バブル崩壊は関係なかった)  いよいよ表面化してくる。
トヨタ自動車が福祉自動車を開発していたが、一緒にやろうという事になる。
新しいファミリーカーにしようという発想の転換をした。

製薬会社とも提携 新しい自動販売機 必要不可欠なものにすると云うものにしようとした。
車椅子にとっては自動販売機は非常に扱いにくい。 
ミニスカートの人も使いずらい、お腹の大きな妊婦も同様 新しい自動販売機は180%に売れすじになる。
常識の裏にある非常識に気付いて、無くしたものを数えるのではなく、残っている機能を見つめてそうすると至るところに新しい芽が有ると、こういう発想が有ると日本はチャンスだらけ。
高齢者の住宅作りを考えた。  くらしそのものを支えないと駄目。
私もいよいよ立てなくなってきた。  浴槽に入るのに手助けしてくれるのに大変な作業が有る。
「風呂は人生の御馳走だ ありがとう」 と言った。 (妻は顔が曇っていた)
風呂に入るのも、妻にとっては一番大変な介護だと悟る。

或る段階を越えると気持ちが切れて行く。  想いはあるがいつまで続くのかと思う。
心の絆が切れて行く。 心も体もボロボロになってゆく。 (涙はこぼれないため息が出る)
在宅介護の厳しさ これでは駄目だと思った。 暮らしそのものを支えないと駄目だと思った。
どこにも移らなくていい、究極のついの世界をつくろうと思った。(バリアフリー+HILT)
HILT アメリカ人の友人に作っても貰った言葉。