2013年3月1日金曜日

今井信子(ビオラニスト69歳)       ・古希を奏でる深い音色 

今井信子(ビオラニスト69歳)      古希を奏でる深い音色
1943年 生れ 6歳でバイオリンを始める 
桐朋学園大学に進んで室内楽を斉藤英雄さんに師事しました  
1964年桐朋学園オーケストラの一員としてアメリカツアーに参加 この時にボストン交響楽団が演奏するリヒャルト・シュトラウスの「ドンキホーテ」を聞いて、ビオラの音色に魅せられて、帰国後バイオリンからビオラに変更しました
桐朋学園を卒業後 海外に留学 1967年ミュンヘン、1968年 ジュネーブの国際コンクールで最高位を受賞しました
ジュネーブ音楽院 アムステルダム音楽院の教授を務めながら、演奏活動を行っています  
1992年からは東京で教育的音楽祭ビオラスペースを開催して後進の指導にもあたっています
3月3日には古希記念としてコンサートを開きます

現在ジュネーブに住んでいる 日本では3か月ぐらい滞在している  
メナヘム・プレスラーとかロバート・マンとか私の先生でもあり 現在でも90歳を越えている方が、
まだ旅行なさって演奏しており、私などはまだまだです
精神的にも肉体的にも若い人達です
最初はバイオリンを習ったが、母親がこの子には手になにか技術を付けようとした   
常に付き添ってくれていた
生活のリズムがそうなって行った   大人しくてひ弱な人間だった  
小学校の頃はあまり覚えてはいない
桐朋学園に入ったときはバラ色の状況だった  一日中けらけら笑っていた時期であった  
高校3年に成って感受性が開けて、いろいろ先生と話していただいて、世界が広がった 
バイオリニストには成ると思っていた

音楽は終わりは無いし、その人の表現であり、感情に結びついているので モーツアルトのシンフォニーで2楽章で緑の色なり、若草色、ブルーが虹が出てきたりして、これだったら音楽の世界で生きて行こうと思った(音楽に色を感じた)
齋藤秀雄先生はスパルタ教育の 精神的なところをがしっと教えて貰った   
物事に対する時には真面目に,真摯に、とことんまでやらないといけないと言う事を教わりました  
それは本当に大きいことだった
1964年にアメリカに渡って演奏旅行をした  スケールが違って物凄く驚いたのを覚えている
ボストンシンフォニーの夏のフェスティバルのある処で私達も呼ばれて弾いた時の事、今でも鮮明に思い出すが、思い出すが 芝生の上で聞いていた時のリヒャルト・シュトラウスのドンキホーテと言う曲があり(私も知らなかったが) チェロの素晴らしいソロが有って、それを聞きながら、ちょっと序奏が終わったときに素晴らしい、甘い バイオリンでも無い チェロでも無い ビオラの場面 語りかけるような音が聞こえてくる  
ビオラも多少は弾いたことはあるがこんな音は聞いたことは無かったので物凄くはっとして
、こんな音が出るのであれば、私のこれから一生やっていきたいと思った

弾いている人に有った イタリアの人で 弾いてくれと言われて、そこで弾いてみた  
手を見せてくれと言われて、手の大きさを観てくれて、これで有れば出来ると言われて、天にも昇るような気持ちだった
一瞬のある出来事で人生が変わる時が有る  
ビオラをやることを決心する(大學4年で)それまでも、バイオリンとビオラは両方やる様に教育されてきた
音楽上で言えばビオラは大事な部分だと思う   ビオラ曲は増えてきている  
やることはたくさんある
ヘンデル作曲  細川俊夫 編曲 「私を泣かせて下さい」  (天に向かって弾いている気持ち)
音域的には5度低い  特有なセンチメンタル ノスタルジックな音だと思う  トランペットのような鋭い音も出る  人間の音域に近い

最初はアメリカに留学する 英語が解らなくて苦労した ビオラを弾く時間が余り無くて、ニューヨークに
出たいと思って、ジュリヤードに入った
もし落とされたらに日本に帰って来るつもりだった   
 1967年ミュンヘン、1968年 ジュネーブの国際コンクールで最高位を頂いた  
スイスのチューリッヒに行く ヨーロッパでカルチャーを学びたいと思った  
住んで見たという憧れの地であった
アメリカのシカゴのカルテット フェルメールカルテット そこで5年間弾いた 音楽家として基礎を
学んだ一番大事な時期だった

バイオリン2人 チェロ1人、 ビオラ1人  4人で競い合いした  出て来るものも濃い、内容の有るもの
だったと思う
子供がいたので、自由な時間が欲しくて ロンドンでソロを弾いたり、室内楽を混じったりしてやっていた   子供を連れての生活だったので 制約があり 大変だった
武満徹と出会う 自分は音楽を聞いて殆ど泣く事は無かったんだが私の音楽を聞いて、感動してくださってそれから親交が生れて 彼の作品を私が弾きたいと思って、1989年パリで初演した色彩豊かな曲を作曲して頂いた
ビオラスペース 20年続いている  ヒンデミット 何でもできる人
ビオラ奏者として、楽器を教えると言うよりも、斉藤先生から学んだ音楽家としてあるべきこと、
人生をどういう風に過してゆくかと言う事 に物凄く興味が有って、レッスンをしてても、、
人間と人間ですからいろんな事が有り、レッスンを休んだりとか、質問を受けた時にどう対処するか、難しくて 人と居る時にはいつも正直であるとか、音楽と向き合う時も本当にとことんまでやる 
中途半端にやらない 諦めずにやる
周りの人に恵まれていた   何かあったときにタイミングが物凄く大事で 待たない方がいい時が殆ど やる事は今日やる
多少のリスクはあろうとも突き進むことが大事  考え込むと出来なくなってしまう   
壁にぶつかり ぶつかり 諦めないで行く
一生懸命にやっていれば、必ず何か降って来ると言うか 道が開けて行く  
リスクの無いところに栄光は無い  音楽は変化するもの 終わりはない
音楽はいろいろな解釈が有り、骨組があり、それを知っていることは大事だが、それに捉われると見動きが出来ない、自由が求められない
  
そう言う事に成って行くと音楽は死んでしまう
今生れた音だと言う感じの音で弾かないと誰もなにも感じない
全部決めてしまって弾くものではない  いつも新鮮さがないといけない  
いつも感じると言う事は大事ですね 初心の心で弾きたいと思っている
初心の心で弾きたいと思っている

*ロバート・マン  1946年にジュリアード弦楽四重奏団を結成し、1996-97年のシーズンに引退   する
   まで50年にわたり第1ヴァイオリン奏者を務めた
  近年はソリスト、作曲家、そして指揮者としての活動にエネルギーを注いでいます。
*メナヘム・プレスラー1946年サンフランシスコのドビュッシー・コンクール優勝。フィラデルフィア管弦  楽団と協奏曲を共演、カーネギーホールデビュー現在インディアナ大学で教鞭を執り ヴァン・ クライバーン、エリザベート王妃、アルトゥール・ルービンシュタインといった各国際コンクールの審査員も務める