庄司アイ(民話の会)
2年前の東日本大震災で宮城県山元町では町内の半分近くに津波が押し寄せ、633人の人が亡くなりました
被災しながらも、町民の津波体験を集めて、証言集としてまとめたのが、山元民話の会の人達です
会の代表が庄司さんです
母親から地元の民話を聞いて育ち、山元町の保育園を退職してから、民話の会のメンバーとして、民話を語り継ぐ活動をしてきました
震災で自宅ごと流され、翌日瓦礫の海の中、辛うじて救出されました
知人、友人の多くを亡くした中で庄司さんは民話の会のメンバーと再会して、被災体験を新たな民話として語り継いでゆく決意を固めました
地元の人達に聞きとりをして、「小さな町を呑み込んだ巨大津波」という3冊の証言集に纏めました
体験したことの無い揺れで動転していました 孫を心配しながら孫の帰りを待った
津波が来るねと夫に声を掛けていました 40分ほどして孫娘が返ってきて、それから間もなく孫娘が庭に居て、途轍もなくでかい声で津波が来る2階に上がってと声がした
黒いもくもくした、くもりが有り、あっという間に水が来て、2階のベランダにいて「動いた 動いた」
と私は言った それから私の家は動いていき、西に500m位動いたときに、山が動いているように感じて 700m山に沿って動いて、引き波でまたぐらぐらと動いた
見渡す限り太平洋の瓦礫の景色、 家がちょっと止まった 瓦礫が溜まっていたところに止まった
2波、3波の波が来たがなんとかしのいだ
一晩瓦礫の中で過ごす 次の日の昼頃救出された
70人ぐらいの人の同様な証言が証言集に寄せられている
民話を語ってきたものとして、責任が有ると思った
津波の伝承をつたえる持ち話が私の中に4つあったんですが、その4つとも私は「あったそうだ」と語ってきた 有ったことをきちっと伝えなかった
私としては自分を責めることも有ったが、こういう事が有ってはならないと言う事が一番有った
「先輩に学ぶ」という企画で小学校で1時間話す機会が有った
その中に、私の故郷で何回も聞いたおすわさまの杉の木のてっぺんには、大昔の津波で流されてきた船が、杉の木のてっぺんに繋がっている 鎖がまだ残っていると言う伝説を語った
しかし真実としてあった事としたは語ってはいなかった 「あったそうな」であった
町内にも2つの伝承が有る
この津波、この伝説、この話のもとになったのはいつごろですかと聞いてきた
処が皆さんも大昔の事とおっしゃっていた
今は記録もできるし、語る事もできる これは残さなければいけない
それではやってみようと言う事になった
活動に入ったのは5月半ば 避難生活の時で皆 自分のことを語れるような状況ではなかった
隣近所、会員の仲間だったら大丈夫という人達にお伺いして、語って貰った
お伺いするのにもいろいろ気配りをした
段々わたしの事も書いて、私も言いたい事が有ると言われるようになった
1冊目と2冊目は違ってきた 向こう様から体験を残してほしいと言って貰えるようになった
助かった人の場合は奇跡だと言っている 流されながら自分が助かった様子
家族を亡くされた人の様子も中々文字にすることは難しかったが
危機管理、防災の意識の低さがこうした大惨事に成った処もあるのではと思う
命だけは何とか助かったのではないかと私自身が思う
慶長の津波のいわれを私が語ってきた、それが語ってきたこと自身があいまいなところが有る
防災無線が壊れていて、不信を抱かなかった
皆安穏として、自分の家の倒れた茶ダンスなどを片付けていた
天災事変はいつどのように起こるかは、マニュアル通りにはいかないし マニュアルが有っても守れない部分が一杯有った その時の自己判断が難しい
最大の特徴は証言そのまんま 立派な言葉では無く、民話として語り継ぐ事が大事で語ったそのまんまを記録として残した (語りつぐことの大事さ) そのまま文字にした
メモを取ってきて、文章にしてみて、足を運んでこんなものでいいかを確認した
文章を書きますと言う人もいて、文字の間違いなどはチェックして、文章はそのまま記載した
私が4~5歳の時 農家であったが病気をして退院した時には、この身体ではこのままでは農家をやっていけないと職員事務所に職員として働くようになる
母が全部農作業を請け負う事になる
姉は学校を卒業すると同時に嫁に行く
母は養蚕、畑作業全部やる 繭も全部売らずに残したもので機織りもする わら織りもする
母の手伝いをして母は喜んでくれて、話を聞かしてくれた
母の兄は講談を母に聞かせてくれた 民話、講談に出て来る話、世間話をよく聞かされた様だ
その様な話を私に聞かしてくれた
結婚して山元町にきた(友働きはしないのが条件ではあった)
公立保育所が出来て、調理師の募集が有り、免許を持っていた私に声が掛った
子供が好きで、保育園で見ていて、子育て方法について疑問も有った
保育士試験を受けて合格通知が来た 翌年保育をすることになる
民話を人形劇にしたり、母から教わった話をすると若い保育士の先生が興味を抱いた
昼寝の時間にこっそりと民話の話をしていたら、子供達は喜んで聞いてくれた
退職後、地元の民話の会に参加 平成8年
民話についての講演会があった、一番最初においでになったのは宮城民話の会の代表の小野和子先生だった
その話を聞いた時の衝撃は身振るいするほどの、物凄い衝撃だった
自分が子供の時に聞いたのも、民話だったし、いろんな保育の場で子供とどんな接し方が出来たかという事でも、子供の目線で子供の気持ちに成って対応が出来たのも 母の民話が基本に有ったのではないかと思って、宮城民話の会に入れて下さいと言って入会した
どんな話でも、訪ねて行ってそれを文字にして残すことを会はやってきた
山元町にもこんな会が有ったらいいなと思った
声を掛けて10人ぐらいが集まった
伊藤昇さんが民話を持っていた(これを文字にしようと思った)
「登さんの昔がたり」(山元町の民話をつくった)
「証言集」は図書館、民話の会(全国の)の反応が有った
これは確たるものだと思っている 今は 機械と人間が会話しているが、矢張り語る、聴くを大事にしてほしいと思う
文字には残したがこれを語り継ぐ人が全国においでになって、次の世代にも次の世代にも、あらぶる神 日本の自然には向かう事無く、畏敬の念を持ちつつ、自然と共存して共に生きて行ってほしいと思うのが願いです
語り継いでほしい、語り継ぐ、それが命だと思います