日野原重明(聖路加国際病院名誉院長)・母を語る(H9/7/21 OA)
今年7月荷105歳で亡くなられた、日野原さんの話を再放送でお送りします。
明治44年に山口県で生まれ、聖路加国際病院名誉院長、聖路加看護大学学長を務め、2005年には文化勲章を受賞されました。
生活習慣病という言葉を定着させて、予防医学や終末期医療の普及に尽力した日野原さんですが、著作も多くて90歳で出版し「生き方上手」はミリオンセラーになりました。
新老人の会を立ちあげたり、小学生を対象にした「命の授業」を行うなど100歳を越えても現役として活躍したその生き方は、高齢化社会のモデル像ともなりました。
日野原さんは成人するまでに2度の大病を経験されています。
その都度、母親の看病と励ましで克服することが出来たとおっしゃいます。
自分の医師としての原点は母の生き方にあるという、お話を伺います。
あと3か月で86歳になります。
午後の回診を1時から3時まで行います。
医学生が見学実習に来ていますので、診察の仕方や患者の問診のことなどを教えています。
最初の病気は10歳のときで、急性腎炎になり、当時1年は休養しなくてはならないと言われて、腎臓炎になると生涯運動はだめだと言われていましたが、幸い3か月学校を休んで学校に出られるようになりましたが、運動は絶対だめだと言われてしまいました。
それを聞いて母親は教会にピアノを教えてほしいと頼みに行きました。
少しずつ学校に行き出したが、皆が運動しているのに見学だけしていました。
それを見た母親がピアノを習う様に話を付けてくれました。
私は好奇心は強かったので、何故か音楽には関心がありました。
私は張り切ってピアノを習いに行きました。
父親は牧師で、母親もクリスチャンでした。
母親は山口県の出身で、毛利藩の士族の出身で仏教の信者だった。
明治20年ごろ宣教師が来て、母は10歳代の時にクリスチャンになりたいと教会に行って、宣教師からオルガンを習いました。
私は教会ではピアノ、家にはオルガンがあったので、家ではオルガンで練習しました。
ピアノの先生は厳しかった。
忙しくて練習ができなくて、或る時先生に誤魔化しを言ったことがあるが、その時のことは嘘を言ってしまったということで涙を出るような思いがあり、今でもわたしが嘘を言った最初の時はピアノの誤魔化しをやったということでした。
中学の2年の時から5年までチャペルで賛美歌を歌うときは、私がピアノの伴奏をやっていました。
4人の友達をカルテットを組んで歌で演奏旅行をやってお金を取ってやっていました。
半分は旅行の小遣い、半分は世話をしてくれた教会などの施設に献金をしました。
5年生の時に母は尿毒症と言う腎臓で死にかけました。
後で判ったのは仮性尿毒症だったようでしたが、その時に危篤ですと言われ時は母が死ぬんだったら僕も一緒に死にたいと思いました。
弟が出来た時、母が弟を抱くわけですが、背中でもいいからと言っていたそうで、母親が大好きでした。
私が医者になったのは、母を助けて下さった安永先生、あんな人になりたいと思いました。
牧師の収入が少なくて、安永先生は往診料を請求しなかった。
母は私が牧師になることを望むよりも、あんな医者になってほしいと心の中に持っているんだと、子供心に察知しました。
小学校6年から神戸の名門校の一中に4人入りました。(その中に私も含まれていました。)
父が関西学院で神学を教えていたので、教職の子供は授業料免除があり、経済的な事を考えて関西学院に行こうかとも考えた。
二つ受かったが、一中ではなくて関西学院に行って、その後三高に入りました。
高校では同人雑誌を出したりしていて、刺激され文系も考えたが、医者になろうと言うことで医学部を受けてストレートで通りました。
母は最高に喜んでいました。
関西学院から三高は非常に厳しかったが、試験を受けるときに母親は経済的に厳しい中、最高級の鰻丼を注文してくれて、その時の味を今でも覚えています。
大学に入って、スキーに行って40度の熱で肋膜に水がたまってしまった。
父は広島女学院の院長になり牧師を辞めていて、私は療養のため院長館で1年間過ごすことになる。
8か月間は38度前後の熱で、寝たきりでした。
母は4時間ごとに私のベッドのそばの畳の上に寝て、熱湯で温湿布をして、慢性腎臓、高血圧で身体の弱いなか昼となく夜となく看護してくれました。
薬のない中、栄養を摂るために、1日3合の牛乳の中に1回の牛乳に卵の黄身が4個入れてくれたようです。
10か月過ぎたころから動けるようになって、ピアノの練習を始めました。(広島女学院)
音楽の先生の前で弾いたら才能があるからと言うことで、教えてくれました。
医学ではなくて音楽に転向しませんかと言われましたが、結局医学の道に進みました。
卒業して昭和16年から東京の聖路加病院に行きました。
昭和17年父が定年になり引っ越して来て、両親と一緒に住むようになりました。
翌年結婚して両親とは離れた生活をしましたが、母親の血圧が高いのでしょっちゅう診察をしました。
アメリカに留学して帰ってから2カ月後に母親が亡くなってしまいました。
病院で6時間、7時間の手術をして、翌日は患者さんは腰が痛いので腰の下に手を入れてあげると患者さんは喜ぶが、それは私に母親がやってくれた手の暖かさが支えてくれたことを思い出して、患者さんにしてあげればいいという気持ちになって来る。
断食して母はよくお祈りしていました、そして聖書をよく読んでいました。
自分を前面に出さないで、影の仕事をするということが母の生き方でした。
日本的な奥ゆかしさを持っていました。
父は28歳の時に4年間留学して、その後2年留学して、父の方はすっかりアメリカ的でした。
広島女学院が発展するためには街は駄目だからということで戦争中に8万坪の山を買って、戦後、山は開けていまはキャンパスは移って立派な広島女学院になっています。
母は強くて行動力のある人でした、それを支えていたのは純粋な信仰だと思います。
父も仏教徒の家でしたが、家を出されてクリスチャンになって関西学院に入って、アメリカから帰った時に、本間俊平さんがに金子満子さんとの結婚をさせました。
人間が真実に生きるという生き方は、母の生き方を見て飾りではない、メッキではないと言うことを、母の生活した中から教えられていると思います。
「いのちの響き」 父の遺稿集を出しました。
出会ってから、子供が生まれて歩んだ道乗りを書いてあります。
母の物凄い忙しい姿を子供の時からみているので、どんなに忙しくても母親には及ばないと思っているので、ちっとも辛くはない、努力することを母から学びました。