2017年9月14日木曜日

田村潤(元ビール会社副社長)       ・100年続く経営を考える

田村潤(元ビール会社副社長)   ・100年続く経営を考える
1950年生まれ67歳、大学卒業後大手ビール会社に入社、45歳で高知支店長として赴任します。
当時会社はライバル会社の革新的な新商品に押され、長年保っていた売り上げ首位の座を奪われるという危機的状況にありました。
そうした中、田村さんは起死回生を狙うためには現場を生かした営業が最も重要と考え、本社の意向とは違った取り組みをつぎつぎと展開しおおきな成果をあげます。
その手法を高知から四国全域、更には全国へと展開し、会社は再び売上首位の座を奪還しました。
去年体験をまとめた著書を出版、サラリーマンを中心に反響を呼んでいる田村さんに伺いました。

現場から会社を変えるということができるということ、今日本の企業はいろんな問題を抱えていて、一生懸命やっても業績が上がらないというのが、大多数です。
現場に本質がある、現場にお客さんとの接点がある、徹底して現場に入ることによって見えないものが見えてきた。
そこで頑張っているうちに業績が上がってきた。
会社の都合ではなくて、御客さんに喜んでもらう、御客さんの視点で全てやっていれば、かならず成果が出てくるということが実績として証明されました。
20年前の経済的な状況が金融政策の失敗だと思っているが、日本の企業が元気が無くなってなんとかしないといけないという時に、企業の統治、ガバナンスの改革があって、短期的な利益の追求、投資効率を上げて行くとか、そういう風潮の中で時間を掛けて御客様との関係を築いていくとか、ブランド力を築いてゆくとか、お客様に喜んでいただく商品を開発してゆくとか、基礎研究を充実してゆくとか、時間がかかるけれど必要な仕事がないがしろにされて、短期の利益さえ上げればいいというそちらの流れが強化されて、会社の企画部門が強化されるとともに、現場が弱くなってきて、何のために働くのかという理念が弱くなってきた。

日本の企業の強みは御客様の為、会社のため、自分のチームのためにという理念と、現場でこつこつと徹底してやると言う、ふたつが日本の企業の強みだったのが、ふたつとも失われてきて、日本の企業の競争力が失われてくる。
人をコストとして考えるようになってきてしまっている。
イノベーションが大事だが、そこが弱くなっている、それによって新しい価値を見出すことが非常に難しくなっていることが問題だと思っています。
その手法を高知から四国全域、更には全国へと展開し、会社は再び売上首位の座を奪還しました。

出身は東京、小学校2年から6年生まで北海道の遠軽町で育って、自然の中で育ってあそこでの生活が今の自分のバックボーンになっていると思います。
支え合うと言う文化があったんです。
自主自立の文化、昔は屯田兵からスタートしたところで自分たちでやるんだという風土がありました。
プールがなくて川のすぐそばで先生と生徒で穴を掘ってプールにしたりして、困ったら自分たちで何とかするんだという自主自立の風土がありました、それが何らかの影響をしていると思います。
当時の地元の人の集まる会(遠軽会)が有り、一流の漫画家、トップモデル、一流企業の役員、オリンピックのメダリストもいます。
豊かな自然の中で遊んでいましたが、みんなで助け合う、いじめなどは無かった。
異質の文化を受け入れる文化がありました。

高校、大学は東京でした。
山に登ったり、本を読んだり、音楽を楽しんだりしました。
当時安い二級酒を飲んだりしていて、金持ちがビールを飲むものだと思っていました。
会社には偶然はいったという感じです。
人事をやっていたので、学生を見る時にはその人間が努力を積み重ねていくことが出来るかどうか、そこに関心が有りました。
人間の能力はそんなに差がないと思っていて、努力を惜しまないで誠実に仕事をやれる、
性格がいい、そういった人間をいかに見極めるかということを重視して面接をしていました。
人柄の良さを何となく感じる、そういうことが一番大きいような感じがします。
最初は岡山県の工場に配属、労務課では現場の方と毎日のようにビールを飲んで、工場はこうあるべきだとか、自分の職場の問題はこういうふうに改善したいとか、色々話し合っていました。
人間の能力は無限にあると思いました、昨日と全然違うということがあります、愚直に
徹底的に努力しているときに、或る時に変わる、見えるようになる。
会社の業績を上げるには、個人の持っている能力を最大限に伸ばす、そうすればすべて上手くゆくということは体感としてわかったいた。
①現場に本質がある、美辞麗句、机上論はだめ。
②人間の能力は無限大にあるからこれを最大限に伸ばしてゆく。
この二つが自分のバックボーンになりました。
大事なのは情報を共有することです。
意見の対立の原因は持ってる情報量の格差に依るものが多い。
役割は違うが、平等なんだということの思想で、自分の考えを率直に述べて、議論して正しい結論を導き出して責任を持っていく、というスタイルが最初に有ってそのスタイルが営業にも活きました。

仕事は上から指示されるのではなく、自分たちで考えて良いビールを作っていこうという、そういうトライアルをした最初の工場でした。
現場の声をとにかく聞く、対等の立場、平等の原則があるので、上から目線、学歴、男女差など一切関係ないという事で、自分の与えられた役割を全うして行く。
岡山工場の文化の中で自分自身も育てられたと思います。
ライバル企業が画期的な新製品を出して段々シェアーが低下て行く。
高知支店に支店長として転勤する。
それ以上シェアーをあげると、独禁法に触れるので、会社の目標が無くなってしまった。
そうすると内向きになる。
役所的な文化が急激に出てきて、企業の体質が弱くなってきて、そんなときに他社の大ヒット商品がありシェアーが下がっていった。
御客さんからうちのビールの時代は終わったと言われてしまい、何をやってもダメだった。

ワーストワンになってしまって、本社の言うことをそのままやってもボロ負けすることはわかっていた。
すべて本社がやっていて、数字が悪いのは本社のせいにしてもしょうがないと思っていたが、何をしたらいいかわからなかった。
飲み屋さんを回り、一月の回るのを200、300と決めて、セールスを自分で決めてやっていこうと決めました。
ところが出ませんでした、そのたびにスイッチしていたら大変なので変えません。
そのうちに辞めてしまって、それはまずいと思って決めた目標はやると、又廻り始めてそっこからうまく行きました。(やっているうちに慣れて、段々面白くなってくる。)
4~5カ月で変わって来ました。
本当のうちの会社の精神、理念はちゃんとあるんだと、それを忘れたからいけないんだと、もう一度作りなおすんだと、その理念に基づいて、おいしいビールを作って御客さんによろこんでもらう、そういうメーカーになるのだと、最後の一人になってもやるんだとそういう覚悟を持てるまで半年毎日考えていました。

世界一おいしいビールを作る、作っても御客さんがおいしいと思ってくれないとだめなので、高知の人のことだけを大切にしようと覚悟を決めました。
高知限定のキャンペーンなどをして行きました。(上司の承認は得ませんでした。)
①「御客さんの為に」と明確にしました。(それまでは本社からの指示をちゃんとやる為)
今日やる仕事の意味を、何のために仕事をやるのかということを一貫させました。(理念、戦略、今日やる仕事)
②現場の基礎体力を付けることも大事です。
③自分たちで正解を見付けてそれをクリアする。
この三つをやりました。

東京営業本部長、副社長になる。
副社長になって3年目で首位奪還を果たしました。
高知でやった事を全国に広めました。
御客様の心理がどう移り変わってゆくのか、ライバルメーカの動きによって市場がどう変わってゆくのか、現場に入って判るようになりました。
ローカルに徹底的に入ることによって、本質が判るのでそれがグローバルの展開が出来る。
いろいろな変化、県民性、特有の文化を全部包含して、適切な手を打っていくことができる人間が世界のどこに行っても通用します。(本質をつかんだ人間)
首位奪還して社員が泣いていました。
仕事を通じて自分の人生が豊になるということを目の当たりにして、仕事とはとてつもなく素晴らしいものだと思いました。
講演では、「自分の足で立ちあがろう」と言っています。(自立性)
会社の使命、果たす役割を考えて行動する勇気を持とうと言っています、そのためには現場が大事です。
会社と言うのは使命があるので、御客さんに支持されてよろこんでもらう、そのためには時間をかけてより必要とされる会社に育てる。
どうしたら最短距離で御客さんに満足していただけるのか、考え続けることが大事です。
そうしてどうしたらいいかクリアになったら、そこまでやり続ける、回答はそれしかないです。
これからは世の中に御恩返しをしたい。
これまでの経験を率直に話をして、アドバイスがあればしていきたいし、良い仕事、誰かの為にやる仕事、多くの御客さんに喜んでもらう、そこに向かって仕事を集中していると、いい遺伝子がどんどん首をもたげてくるという印象がある。
仕事を通じて素晴らしい人になって行く、そういう経験をして貰いたい、それが恩返しだと思っています。