2017年9月4日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・津田梅子【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・津田梅子【近代日本150年 明治の群像】
講談師 神田蘭

留学生の草分け、津田塾大学の創設者。
6歳でアメリカに行っている。
 
津田梅子の紹介(講談)
「1871年、明治4年 明治新政府は岩倉使節団を欧米に派遣、その中には60人ほどの留学生が含まれていた。
うちアメリカ留学に送られたのが5名の女子、その中に6歳の女の子(津田梅子)がいた。
アメリカでホストファミリーに囲まれ、10年以上生活、英語はペラペラ話せるようになる。
日本に帰るとすっかり日本語を忘れていた。
日本で女性のための学校を作るのだと、大きな志を持って帰ってきたが、日本の世間がそれを許してはくれなかった。
女性がすべきは、炊事、洗濯、針仕事、即ち結婚して母になること、梅子も結婚するようにと攻め立てられる。
彼女は生涯結婚をしなかった。

女子教育がしたいと、政府が作った華族の子女たちが通う学校で教師として働きます。
自立して社会に出なさい、使命があるはずだと説くが、自分が伝えたい指導方針とは違うと思って、再びアメリカに行く。
帰国後、明治33年、麹町に女性教育者を育てる女子英学塾を開校、10名から始まる。
(津田塾大学の前身)
資金難を援助したのが、共に使節団でアメリカに渡った、大山捨松ら。
その卒業生には多くの求人が寄せられる。
梅子が目指した女性教育とは、女性の権利を主張し要求する前に、女性が自らを高めなければならないということ。
女性は結婚するものと言う一般的な生き方に抗い、日本女性の地位向上のため教育のため、人生を全うした。」

父親は教育者になる人、教育熱心だった。
父親は津田仙、キリスト教の信奉者で海外に行っている。
進んだ見識の持ち主で、福沢諭吉の3回目の洋行の時に、津田仙も同じ船に乗っている。
5人の女の子は全員戊辰戦争の負け組の武士の娘だった。
そのなかで梅子は6歳だった。
他の女子は吉益亮(よしますりょう)14歳、上田悌(うえだてい)16歳 この二人は10カ月で帰る。
他には山川捨松(のちの大山捨松11歳、永井繁子(のちの瓜生繁子8歳だった。
3人はアメリカで自我を目覚めさせ、成長させて自分を作り上げたと思われる。
チャールズ・ランマン夫妻に梅子はお世話になる。
ラテン語フランス語などの語学英文学のほか、自然科学心理学芸術などを学ぶ。
11年間留学、明治15年 18歳で卒業して日本に帰国する。(結婚適齢期)
女は家に入れというような事が、当時の世間の目だった。

国費で留学しているので何とか恩返しをしようという思いがあったと思う。
山川捨松は大山巌元帥陸軍大将)に嫁ぐ、永井繁子は瓜生外吉(海軍大将男爵)に嫁ぐ。
梅子は英語の先生になる。(伊藤博文の家庭教師)
私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介される。
明治22年再度渡米、3年間勉強、生物学を専攻する。(一緒に研究していた人が後にノーベル賞を貰う。)
明治25年(1892年)8月に帰国。再び華族女学校に勤める。
明治31年 梅子34歳のときに3回目の渡米する。(ヘレン・ケラー、ナイチン・ゲール等の有名人と会う。)
少ない資金で自分の教育方針を貫く事が凄い。
明治33年(1900年) 父の仙やアリス・ベーコン、大山、瓜生、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、同年7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立。

厳しい教育を行った。
大正8年(1919年)1月に塾長を辞任する。
昭和4年(1929年)に脳出血のため64歳で死去。
墓所は、東京都小平市に在る津田塾大学の構内にある。
津田梅子の卒業式の式辞(英語での生のスピーチの録音見つかる)
「学校を卒業することは、風や波の試練に立ち向かう旅へ出発する船の進水にたとえることができます。
この学校に限らず他のどの学校においても、学校だけでみなさんの行く手にあるものに対処できる力を完全に付けてあげることはできません。
一人ひとりの人生の行路には一人で立ち向かわなければならない、それぞれの困難と問題があります。
わたしたちはあらゆる面においてみなさんを助ける努力をしてきました、しかし将来は皆さんの手中にあり、みなさんは実際の体験における試練と教訓を待たねばなりません。
しかし、わたしたちが願うみなさんの無事で幸せな航路には灯台の明かりと危険を知らせる信号があり、それらは行く手に横たわる危険なサンゴ礁や狭い海路にあっても、きっとみなさんを安全に導くことでしょう。
灯台や信号が指し示す進路に眼をつぶることなく、忠実にその意義を受け入れてください。・・・・・。」