長谷川透(外国車修理工場経営) ・名車の輝きをよみがえらせる
埼玉県川越市で外国車修理工場を経営、58歳。
1960年代から80年代にかけての英国車を中心に古い外国車の修理を手掛けています。
長谷川さんが修理をするのは、生産台数が少ない車が多く修理用の部品がないことも珍しくありません。
こういった場合、長谷川さんは可能な限り自分で部品を作っています。
修理が終わると長谷川さんはオーナーに車を引き渡します。
憧れの名車を手に入れたものの、不調が続き味わうことが出来なかった車の性能がよみがえった瞬間、多くのオーナーが喜びの表情を見せると言います。
長谷川さんの修理で名車はどのように輝きを取り戻すのか伺いました。
サイズの規格が日本と英国とは違っているので、今部品を作っています。
修理する車は1960年代から80年代にかけてのコンパクトな車が多いです。
イギリスが多いです、部品が共通されていて、長く車が生き残る為の重要な要素が非常に多いというところがイギリス車のいいところで、イギリス車を多く扱っています。
3~6か月ぐらい待っていただいてしまうこともあります。
工場は祖父の代から始まっていて3代目になります。
父の代が車の環境が一番変わった時代ですので、日本の車を修理することが多かったです。
父からはネクタイをする自動車屋に成れと言われました。(経営者に成れ)
結果として違うことになってしまいましたが、そうなったことは私にとって幸せに感じています。
自分のやりたいことと接点を持ちながらやって行くのが、長く続けられることかなあと思いました。
一時期父と一緒に仕事をしていましたが、技術を受け継ぐと言うことに対しては伝えたいものがあったのではないかと思います。
段々自分でやりたいことが国産車では生かすことが難しくなったという事はあります。
イギリス車に名刺を挟んで、チャンスがあれば自分でやってみたいとは思いました。
御客さんの車を預かって直すことは、やはりそういった関係を作るのは難しいですね。
軽井沢の方に工具を持っていって、修理をさせていただいたこともありました。
古い車が無くなっていってしまうから、この先街の電気屋さんと同じような運命をたどるのかなあとの思いもありましたが、真空管のアンプを使ったようなオーディオのマニアの方が残るということも感じていて、マニアのニーズに答えられるようにしていきたいという気持ちはありました。
人脈を広げる努力に苦労したという感覚はなくて、車が常に間にはいって、人に伝えていただいてその連鎖だったと思います。(口コミが90%以上)
車が持ち込まれて、修理内容、御客さんの要求がどのようなものなのか、一緒に食事をしたり酒を飲んだりして話をします。
趣味、こだわりの世界があるので、そのこだわりに対してどんなことが出来るのかなと思っています。
リフトで持ち上げて、まずは車を良く見るようにします。
初めてみる車があったりするので、車を観察して設計者の意図を考えたりもします。
修理の状況など見て自分の参考にしたりもします。
2日間ぐらい見ていて、手が動かない時もあります。
イギリスの車は大切にされていて、他メーカーでありながら部品が共通しているものがあり、部品が使えないものもあり、違うものを加工して使えるものにしようかということもあります。
交換部品が手に入らない時は、作れるものなら作ってみようということになります。
非常に難しいものだと相談したり、自分で創意工夫したりします。
図面はないですから現場合わせになってしまいます。
御客さんとのコミュニケーションで決めて行く内容もあります。
今の自動車は高性能、高精度、トラブルが少ないということで、旋盤、ボール盤、プレス機、溶接だとかの出番がないのが現実です。
加工することに関しては知り合いに色々聞くこともあります。
オケラ職人(なんでもできる)には一生成れないとは思います、技術が進歩し過ぎてしまったんだと思います。
修理して動くようになる、その瞬間が全てになっています、鳥肌が立つような思いもあり、御客さんがニコッと笑ってくれた充実感がこの仕事をやっていて一番だと思います。
修理を手掛けたのは約9000台になると思います。
今は一人でこなしていますが、ごまかしがきかないプレシャーみたいなものもあり、誰か見てて欲しいというような思いもあります。
プライベートではジムカーナというレースに出たりもしています。(7年前から)
自分で運転することによってより御客さんとの話が理解できるようになったと思います。
出来うる限りより古い車を見てみたい、触ってみたい、1930年代の車とか。