吉田実盛(鶴林寺 真光院住職)・死を見つめて今を生きよ~「往生要集」が語るもの~
地獄、極楽と言う情景と言うものは、およそ1000年前の平安時代に世に出た往生要集という書物によって人々に広く知られるようになりました。
往生要集を書いたのは恵心僧都の尊称で知られる僧源信、源信は仏道を歩む人が悟りに近づくことを手助けしようと、あまたの経典をあたって要集をまとめました。
吉田さんはその源信の思いを現代に生かそうと、取り組んでいます。
1000年たっても通じるという往生要集が説く世界について伺います。
死に方のマニュアルだと言えます、裏返すと死ぬまでどうやったら生きたらいいかという、行き方のマニュアルだともいえます。
往生する、その方法は一つかと言うと決してそうではなくて、往生して行くために何をしなさいと言う方法が何種類にも書かれていて、そのうちの出来ることをあなたがすればいいんですよと、問いかけてくる、それが往生要集であり源信の姿勢になるんだと思います。
医療が進んできて、死にたくないと言う思いが強くなっている現代かもしれません。
しかし死をむかえなくてはいけないが、死を怖がらないで生きる方法が往生要集の中に見えると言うことを知っておくべきだと思います。
往生要集が完成したのは永観3年西暦985年のことと伝わっています。
内容は10章から成っている。
地獄と極楽の情景の後、極楽往生を遂げるための心得と作法が続きます。
冒頭の厭離穢土の章では地獄の恐ろしい様子が詳細に記されています。
地獄は8つの階層に別れていて、罪が重いほど下の方に落とされるとされます。
一番上は等活地獄、殺生を犯した人が落ちます。
ここでは身体が切り刻まれる苦しみを味わいます、身体がバラバラにされても、鬼が呪文を唱えると元の身体に戻り、苦しみが際限なく続きます。
最も重い罪を犯した者が送られるのが一番下の阿鼻地獄、そこまで落ちるのに2000年、地獄では焼けた鉄を飲まされたり、舌に杭を打たれたりの責め苦を受けます。
恐怖に満ちた地獄の情景、往生要集で最初に置いた源信の狙いとは何だったのか。
穢土、六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天界)の全てが厭離すべきも、離れて行くべきものなんだということを主張するわけです。
最初にある地獄はいかにも恐ろしい場所であるかと言うことを、鮮烈な教義がずーっと続いてきて、生き返り殺され生き返り殺されということがずーっと永遠に続いてゆく、等活地獄があるということを示して行き、どんどんその描写がより厳しいものになって行き、これが地獄の表記です。
詳しく書いた理由は2つ有り
①私たちが子の世に執着してしまって、この世で欲望の限り、ついつい悪いことをしてしまったり、本当の美しい生き方を目指さなくなってしまった。
②お経が沢山あるが、それを整理してみたら膨大な厳しい地獄の表記が次々に出てきた。
極楽、欣求浄土の章で示される。
極楽の表現の平等院鳳凰堂、本堂に再現された極楽浄土、中央には阿弥陀如来、極楽も9つに区分されている。
浄土にいく行き方が9つある。
往生して行く速さが違う、お迎えにこられる菩薩の数が違うとか、極楽で生活を始める速さが違うとかに別れている。
自分自身がどう生きてきたから、どのように報われるのかとの対応だと思います。
昔の人は素直に受け止めた。
戦争、辛いこと、病気、親切を受けることもある、そういうものがちらちらっと、地獄、極楽の場面が垣間見えて、混じりあってこの世の中がうつろいでいるような気がする。
そういう感じ方が出来ると、六道の輪廻、地獄、極楽の世界が実際に存在するんだと信じる事が出来ると思っています。
よりよい死に方を出来るようにするためには、今をどう生きなくてはならないと、今の生き方を考えるための教えとして九品などがあっただろうし、地獄、餓鬼、畜生道に落ちますよと、今をないがしろにしていると、そうなりますよという教えだと思います。
源信は天慶5年西暦942年に生まれる。
幼い時に比叡山に入り、13歳で得度、宮中でも仏教を説くようになるが、栄達よりも多くの人を救う道を選ぶ。
44歳で往生要集を完成する。
平安時代中期から後期になると三世の思想が入ってきて、正法・像法・末法 末法になるとお釈迦様の教えが伝わらない、極楽往生できない、仏教が廃れた時代になってしまうという恐怖感が滲みだしてきた時代だった。
自分が勉強してきた限りを整理しつくしたら答えが見えるのではないかと、思ったのではないだろうか。
念仏は仏に帰依する心さえあれば行える修行。
念仏の種類はいっぱいある。
往生して行くためには色んな方法がある。
万術をもって往生する、と言うことを言っている。
臨終のときに仏像から伸ばした五色の紐を手で握るなど、逝く人、送る人双方について詳しく述べている。
家族、友人、僧侶などが集まり息を引き取るまで念仏を唱える。
極楽が見えるかどうか、極楽が見えるように回りが願う。
安らかな気持ちで死を迎えられるような状況を作る。(ホスピスのような)
大学院の博士課程の終わりのころ、先生が本を書かれることになり、その手伝いの時に往生要集を読み返したことが、きっかけになりました。
生き残った人が死に対してどう見つめるか、どう寄り添っていくか、往生要集が現代の社会に呼びかけているような気がしています。
亡くなることを前提として、ここまで生き抜いてきた、生きると言うことの裏返しが、やがて来る死を安心させるものになっていることに気付きました。
ちゃんと生きる、生き抜いた後、死は怖くない、安らかに迎えることが出来る様になるにはどうしたらいいかと言うことを、臨終の行儀でちゃんと示してくれていると言うことを知りましたので、人に説かなくてはいけないと実感した次第です。
仏教では人が亡くなると、生前の行いを調べる裁判を 7日ごとに受けます。
極楽にいけるように残された人達が祈るのが7日ごとの法要です。
私は法事、仏事に関してはなるべく説明して理解してもらいたいと思ってやってきています。
そうすることによって、心配すること、不安を相談してくれると思っていたが、御主人を亡くされた方が御主人のもとに行きたいと思って自らの命を断たれてしまいました。
僧侶は仏事に関しての専門家で、仏事のことしか相談はできないのか思われたのかもしれないと思い、そのことがおおきなきっかけとなってターミナルケア等に真剣に取り組まなくてはいけないと思いました、葬式を出された直ぐの家族に対しては心を砕いて、なるべく寄り添うような活動、行為をしていかなくてはいけない、不安があったら相談してもらえるような存在でなくてはならないと思うようになりました。
そんなときに重要な意味合いを持ってきたのが往生要集でした。
源信は送る人たちのよき往生を願う心が、亡くなった人の極楽往生を助けると説きました。
それは送る人たちにとっての大切な人の死を受け入れる道乗りでもあります。
法要の際には必ず法要の意味、手順とかについて話をします。
僧侶だけに任せきりと言うのではなくて、自分たちが参画している意識、個人と繋がっている意識を確認して頂きたいと思っています。
お焼香の時にどんな思いを込めるか、少しでも思いのこもったお焼香により深くなるのではないかと思っています。
思うことで自分がどういう立場にいて、どう生きなくてはいけないかと言うことが返って来ると言うことになると思っています。
亡くなった人との距離感、時間的な経過をおいたうえでも故人をどう思っているかと言うことが大事だと思います。
自分の生き方に対する指針も見えてくるのではないかと思います。
私はこんなふうに生きてますよと、最後のところでは晴々と元気にあかるく言えるようになってもらいたいと思っています、そうすると故人があの世で笑っている姿が、本人には思い浮かべることができるのではないかと思います。
地元の子供や親を定期的に寺に招くことも取り組んでいます。(座禅体験等)
仏教を知る人は迎えてあげたいが、仏教を知らない人も仏教とはこんなに素晴らしいと、極楽で迎えてあげたい、仏教を浅く広く知ってもらう様な活動も知ってもらいたいと思った次第です。
源信の短歌
「大空の 雨はわきても そそがねど うるふ草木は おのが品々」
大空から降ってくる雨はわけへだてなく木々に当たるが、受けている方のうるおいを持つ草木、おおきな木は一杯雨を受ける、小さな草は少しだが、それぞれに十分受けて草木が育ってゆく。
仏教が大勢の人に教えを振りまいている中で、何処で芽が出てくるかわからないが、人がどんな形で受け止めるかさまざまで、仏教の面白さ、奥深さ、興味深さを発信していかないといけない、と言うふうな歌なのかなあと思っています。
死ぬことを前提にするのではなくて、生きることの延長線上に死があると言うことで、生ききった思い、もうこれ以上することがないと言う状況まで生き切ること(できないかもしれないが)、悔いを残さないような生き方を一日一日して行こうと考えた結果、臨死状態に成った時でも心おきなく死を迎えられるようになりますよと説いていたのが、臨終行事の段だと思います。
現代社会では出来ないかもしれないが、そういった心構えを自分のなかに見出すことはできるかもしれない。
往生要集は生き方マニュアルであるし死に方マニュアルでもあるわけです。