2017年9月7日木曜日

原和夫(銭湯経営者)        ・番台から子どもを見守る

原和夫(銭湯経営者)        ・番台から子どもを見守る
東京駒込の近くで4代続く銭湯の経営者原さんは70歳、40歳の頃サラリーマンから家業の銭湯を継いで、今まで気付かなかった地域の子供たちを取り巻く問題が見えてきたと言います。
娘さんの学校のPTA会長を引き受けざるを得なくなって以来、学校の先生とは違った立場から不登校、いじめ、親の貧困など、子供たちの抱える問題の解決に走り回る原さんの忙しい日々が始まりました。
番台に座っていても子供達から気軽に声を掛けられ、世間話から悩みの相談まで親身に聞いてくれる原さんは子供たちの人気のおじさんです。
昔ながらの風情の銭湯を訪ねて、原さんが地域の子供たちとどのように向き合っているのか伺いました。

文京区でおじいさんの代にやってたときに、空襲で焼失して、戦後こちらに移り住みました。
明治末のころからは営業してたということです。
大杉栄、伊藤野枝とかお風呂に来ていたようです。
大杉栄は恰幅が良くて、気風が良くて人気があったそうです。
「殿上湯」と言う名前ですが、将軍家の直轄地で狩りをしたとき等に、休んだりする土地だったようで、その由来から来たようです。
138mと深く井戸を掘ったので水質が凄くいいです。
備長炭を風呂の中に入れています。(ろ過する)
入湯料460円です。
おおきい富士山の絵が書かれています。(男湯と女湯にまたがっている。)

サラリーマンをやっていましたが、40歳のころに継ぎました。
低迷していて、これからは大変だとはいやっと言うほどわかっていましたが、無くしてしまうのには惜しいと思いました。
一番下の子が小学校に入っ時に祖母と母親が体調を悪くしてしまって、妻から替わりに学校に行って欲しいと言われました。
男だと目立って、そのうちにPTAの会長の話があり、受けざるを得なくなりました。
出来る範囲のサポートはしたいと思うようになりました。
不登校、非行で苦しんでいる時に、断罪して済むかと言うとそうはいかない。
否応なしに色んな事に気が付いてくる訳で、不思議と色々飛び込んできました。
我が家では、おじいさんや父親たちを見ていると、朝起きたらおじいさんが上野駅から知らない人を連れて来て、お腹がすいているということで、朝ごはんを食べさせたり、その人がしばらく家で働いているとか、そういったことがざらにありました。(子供の頃)

番台では子供達とは話を良くします。
ある子は将来はお風呂の経営者になりたいといってきて、お風呂の自由研究をさせてほしいと、母親と一緒に来たこともあります。
小学校、中学校では対応できないケースがいっぱいあります。
父親、母親が仕事がうまくいかない、失業している、病気で働かないとか、そういうときに前ならば学校がうけ皿になり得たが、今は学校は凄く忙しくて対応が出来なくなってきている。
子ども家庭支援センターとか児童相談所とかあるが、まだハードルが高い。
そういった中でPTAの会長だと、そういったことに対して話しやすい。
いきなり専門機関行くということは、なかなかしない。
不登校の子に聞いたが、学校の先生には相談しないというわけです。
教員ではないのでハードルが低い。
いろんな理由が複合的にあり、聞いたなかで最大公約数みたいなものを学校に持っていってそれでやりましょうと、言うことになりました。
キーパーソンは保健の先生です、先生のなかでは子供にとっては一番相談しやすい。

銭湯の開店前には学校にいたり地域のことなどをやります。(夜は1時になってしまう)
ボランティアで大学生たちも応援してくれました。
子供達からのSOSは夏休み、冬休みが多いです。(学校がないということが大きい)
生活上の問題で給食が命綱と言うようなことがざらにあります。
給食は凄く大切で、私は不登校の子の教室があるが、無理しても一緒に食べるようにしています。
家庭が脆弱な家庭環境にとっては夏休み、クリスマス、冬休みなどは行き場がなくて辛いと思います。
家庭のウイークポイントがさらされてしまう。
家で厭なことがあっても学校へ行けばと言うような事があるが、学校でも居場所が無くなると厳しいと思う。
不登校の居場所作りをさせてもらっています。
虐待、親が病気など大人の問題に子供が巻き込まれる。
今は学校も家庭が見えにくくなっている。
対応のノウハウを学校ではなかなか持つことは出来ない。

家出の子の親との対応も色々あります。
子供の話をちゃんと聞いてやると言うことが大事です。
基本は子供がどうしたいのかということを考えてあげる。
大人が声を掛けてあげないと何にも子供には響きませんよ。
昔面倒見た子が訪ねてくることがありますが凄くうれしいです。
辛い環境で良くこの子を高校卒業して、社会人になったという子もいますし、大学生で頑張っている子もいます。
長いスパンで声をかけ続けるということが大事です。
私が3歳の時に火事に巻き込まれたが、家族ではないどなたかが救出してくれて助かりました。
私は戦争直後に生まれましたが、母親が栄養失調から来る乳腺炎でおっぱいがでなくなり、商売柄どの人がおっぱいが出るかが判るので、色々な人におっぱいを貰いました。
いろんな方に助けられたお陰で今の私があるわけで、たまたまご縁のあった方に出来ることをしてあげられればと思っています。