織田哲郎(音楽プロデューサー) ・いつまでも変わらぬ歌
高校時代にバンド活動を始めた織田さんは、21歳でプロデビュー、バンドやソロシンガーとしての活動と並行して、他の歌手やバンドへの楽曲提供やプロデュースを手掛けるようになります。
1990年代にはアニメ番組のテーマソングとして提供した「おどるポンポコリン」ZARDの「負けないで」「揺れる想い」、自身が歌った「いつまでも変わらぬ愛を 」など、手がけた楽曲が次々とミリオンセラーとなり音楽業界で一つの時代を築きました。
一方で忙しさのあまり、心身のバランスを崩した時期もあったと言います。
傷つくことが多かった子供時代から、大好きなロックギターを弾く思いまで伺いました。
『CAFE BROKEN HEART』(カフェ・ブロークン・ハート)の反応は、自分から何も言っていないのに母親から「聞いたよ」と言ってきたのは初めてでした。
話があったときに、じっくり聞いてもらえるのを作れるなと言うのが一番最初に考えたことです。
いつもゆっくり流してもらえるということは、トータルをキチンと聞いてもらうことを前提で作れるということはありがたかったですね。
自分自身で詩はどう作っていくのかよく判らない、潜在意識のぬか床みたいなものがあるが、ぬか床に自分の思い、日々の出来事などを漬けこんでおいて、ぬか床に手を突っ込んでみると出てきたものです。
感じたことが、感じ方が強いことが投げ込まれている方が、結果的に後で良い味が出てくる。
これはどうやら昔からそうなっていたようです。
小学校の頃は漫画家になりたいと思っていて、中学の頃は画家になろうと決めていました。
とにかく何かを取り入れてはそれを外に出す、表現する手段を常に求めていて、一番身近なものに飛びついていた。(漫画、絵画)
日本に戻って来た時がフォークソングブームだった。
学校の寮に入ったらみんなギターを持っていて、弾いてみたらそこからは音楽のプロになるということしか考え無くなった。
何人かでなんかやろうとするということが音楽の場合必要になりがちで、それがすでに辛くなったということが、20代前半であり、一人だけで何か作るものの方が向いているのではないかと思って、一時期止めようと思った時期もありました。
たまたま入った喫茶店で占い師がいて、あなたは音楽とか芸能が向いていると言われて、自分の中ですっきりした物があって、やりたいことしかやらないからと宣言してやっていこうと思って、自分で事務所を作ってしまった。
当時は傍目には物凄い自信があったと言いますが、物凄く自信のないものが自分のなかにはありました。
積み重ねる事で、地に足が付いたところでのやって行き方がやっとできるようになったと思います。
子供が出来たということが、子供の成長を見て行く中で、ちょっとずつ変わっていったというのも、本質的なところで大きかったと思います。
小さい頃はほめられたことはなかった。
音楽とかでたまに褒められると嬉しかった。
子供の時は、基本的に親はすごく大きいものじゃないですか、完全なもの見たいで、完全なものに否定されるということは、とても自分が駄目なものだということになる。
自分が子供の親になると、ひどい親だなと言うところから始まる。
そうすると色んな事が解消して行く部分があった。
何かを作るということが、何かを発散できるシステムになっていたんだと思います。
子供のころはひたすら騒ぎまわっているタイプだった。
しかし、可愛いと思ってくれた女子がいました、それは支えになりました。
友達もできたし、自分の日常の中での楽しい生活スタンスは自分で作れた。
皆と言うもの、不明瞭な皆がこうしているというところに合わせなくてはいけない圧力は特に日本には強く、しかし意外に人間は気の合う人達の小さな社会でやっていければ、全然問題ないということを、そういった子どもたちに言ってあげたいと思います。
色んなめぐりあわせが上手く回っているという実感がありました。
曲がヒットするというのは何か一つの要素だけで売れるということではなくて、売れるものは条件がきちんと揃うことがヒットするということには重要です。
めぐり合わせのいい時はどれも上手くいくことばっかりが結びついてゆく。
私の場合、めぐり合わせが上手くはまるときに、とてもいい形で活動できたということだと思います。
30代の時、90年代になってヒット曲が多くて、30代に多く仕事をしていると思われがちですが、本当は20代の方がしていました。
忙しいから80点でいいやということに気が付いて、一遍休んでどうするか見つめ直そうと思いました。
自分が出来る範囲でしかやらないことにしよう、と思い到りました。
音楽界からのフェードアウトでも良いかなあとも思っていました。
休んでいる間に来た話が、ちびまるこちゃんの主題歌「おどるポンポコリン」で、音楽で子供が喜ぶことはしたことはなかった。
異様なヒットになり、ミリオンセラーになりました。
「想い出の九十九里浜」を出したら、これもヒットしてしまいました。
音楽の神様が俺にやれと言っているのかなと思って、きちんと腹を決めて戻ったわけです。
自分が楽しいことが一番じゃないの、と思いました。
40代は戻ってこれなくなってしまうので、酒に逃げるようになってしまって、仕事はしていたが心身ともにおかしくなっていたときに、スペインで首絞め強盗に会って、財布、パスポートなどを奪われて、首を強く絞められたため声が戻らなくなってしまった。
高い声だったが、病院に行ったら声帯の骨が曲がっていますと言われて、治らないと言われました。
音楽に対しておろそかになっていたと思った、仕事としてはまじめに働いていたが楽しんでいないし、忙しく自分が歌を歌うということもできなくなっていた。
音楽を義務としてやっている状態だったのを、音楽の神様がおしおきをしたんだという実感がありました。
事件があったことで、もう一回人生を考えろと言われてしまったと思って、断酒して仕事も整理して、もう一回音楽とどう向き合っていくか、見つめ直す日々を送りました。
発声練習をしながら、子供の頃の好きだった歌を歌って半年から1年やっていました。
あれがなかったら、確実に音楽家としても人間としても終わっていただろうと思っています。
来年還暦ですが、余り思いはないですね。
ただ自分で出来る時間が限られているなかで、やりたいことは全部やっておきたい、出したいという音楽は出しておきたいという思いは強くなっています。