2014年3月13日木曜日

いせひでこ(絵本作家)      ・3月11日からの絵描きの旅

いせひでこ(絵本作家)    3月11日からの絵描きの旅
「チェロの木」という絵本を完成する直前に、東日本大震災が起きました。
いせさんはその時点で作品のイメージが止まってし舞いました。
現地の様子を知ろうと夫で評論家の柳田邦男さんと被災地を取材して回りました。
その時に子供の現状に不安を感じ、木の実を赤ん坊にたとえ、木が育ってゆく様子を描いた木の赤ちゃん図と言う絵本を作りました。
そして福島県で外に出られない子供たちに手渡して読んでもらいました。
この3年間被災地に通い続けたいせさんは見える部分は解決しても見えない心の部分は決して解決していないと言います。
その心の葛藤を絵本にどう表現したのかなどを伺います。

世田谷文学館で私の原画展をやっていた。 そのど真ん中が3月11日だった。
長いこと温めていた構想があって、数枚本書きもやってみて、という状態だった。「チェロの木」
大震災に接して、絵本を書こうという様な発想はなかった。
以前孫のスケッチをしていたが、3月12日に預かった時には6か月の赤ん坊は4時間泣き続けていて、こんなことはなかった。
尋常ではない泣き方をしていた。  本能で何かを感じたのかもしれない。
落ち込んでいた時には、アトリエにいって絵を描いて自分を立ち直らせてきたが、そんなもんじゃないんですよ、絵が何の慰めにもならないという事があるんだろうかと思った。
TVの映像を見ていて、風景に色が無くなってしまった。
絵具も使えない、使いたい気力が出てこない、すごい焦るのだけれど、どうしようもなかった。

原画を見に来ていた人は、シーンとしてしていて、その絵向かい合って感動しているというのではなくて、その絵が今どういう意味があるか、絵を通して自分の心に問いかけている様な姿に見えた。(いままでの原画展とは全く違っていた)
3月11日の前に見た人とその後見に来た人の絵を見た時の感じ方が違っているようだった。
何かできないかなあと思った。
音楽家は被災地に入って言って、活動をしていたが、絵描きとして自分としてはどうしたらいいか判らなかった。
木の実があかちゃんのすがたになって、どういう未来に向かって、どこに生れてどこに育とうか、という物語ならばできるかもしれないと思ったのが、「木の赤ちゃん図」という絵本です。
ドングリとか、かえでとか20数種類を書いた。
未来に向かって生きて頂戴と、それだけ伝えたいと思った。
被災地に届けようと緊急出版した。
心に火がともってほしいと思ったのが、飯舘の子供たち全員に「木の赤ちゃん図」を持ってゆく。
秋になってからですが360数人、全員に持って行ったが、小学1年2年生に 黒板に皆でドングリの絵を描いて遊びながらやった。  喜んでもらえたと思う。

一人一人に葉書大の大きさの用紙にそれぞれ違うドングリとかを描いてメセージを渡した。
南相馬では幼稚園の子供たちに読み聞かせを私自身で行った。
子供たちがどんなに不安だったのかと、その時の子供たちの様子、言った言葉で自分自身判った。
描いたあとでいろんなことが感じる。
絵本作家としてのボランティア行為はこれだと、感じたのでは。
伝えるために描いた絵本 出版社も何百冊も寄付してくれた。
壊れた風景をどうやって再構築しようか、と言うのが私の大きな課題になった。
それまでは行きたいたいところにいって、スケッチしてそのモチーフを主人公にしてきたが、壊れた風景と、壊れた生活なので、私が感じたのは東北だけの問題ではなくて、この風景を日本中が知らなければいけなんだな、一緒に共有しなければいけないんだなという事が物凄く大きかった。
絵本作家として、「チェロの木」 木がチェロになって、どんな音を出すのか、どんな思いで育った木なのか、ストーリーを考えていたが、倒れた木、流された木だとか、他の風景が入ってきた。
壊れた風景の中からどうやって美しい風景を再構築をするかが物凄い課題になって、難しくなってしまった。
普遍的 が当てはまらない場所があるんだとそこに囚われてしまった。

チェロの木、おじいさんが育てた木を切って、お父さんが楽器に板にして長い時間かけて作って、子供が弾く事になるが、音楽の世界と森の世界を結び付けてゆく事になる絵本だが、
息子が楽器職人になると考えていたが、3.11以降にまっすぐ描けなくなってしまった。
この人だけ良ければ良いという風には描けなくなって仕舞った。
子供たちが未来をプレゼントしてもらえるような状況が一番大事なことのように思えた。
職人の子が職人になるで終わる、ではなくて、何万の未来を伝える人、チェロを教える人にした。
チェロで子供たちに教える先生に成りました、と言う事にした。
(無数の小さな未来を作りたかった) 2013年3月にでき上る。

「あれからずーっとチェロを弾いている。 木に宿った音を見つけ、父もぱバプロさんも今はもういない。チェロを弾いていると私の音の中に亡くなった2人はいるんだ。  
私は子供たちにチェロを教える道を選んだ。
父が作ってくれたチェロは今も艶も失わず、私の生徒たちの腕のなかで今も温かい音を出している。」(最後の部分)
大震災後、木を見る目も変わってきた。

記憶の始まりは5歳の頃、紙さえ与えておけば黙って描いていた子供だった。(2歳から描いていたらしい)
長田宏さんが絵本の原稿をくれた。
誰に何を、どうやったら絵に描けるかどうか判らなく成っていた。
5歳の頃のことがドンドン自分の中に出てきた。
5歳の私になって原風景を描いた。
宮城県わたり町の一本の木が私に語りかけてきた。
黒松 毎年行って描いている。 
最初はがんばっているんだから私を描いてと言っているようだった。
枯れていて、肌はガサガサになっているが、二本の枝が空を掴もうとしている。
下の方に沈みこんでいる枝が根っこになろうとしている様に見える。
この木がある限り、周りの復興はされていないと思う。
それを伝えるために木が私を待っていてくれると思う。