長濱晴子(看護師) 父母からの最期の贈りもの
1969年に聖路加看護大学を卒業しました。
夫と、自分の両親の最後を看取りました。
その間には御自身の重症筋無力症と癌の手術、夫も癌の手術と敗血症で入退院しました。
その20年間の経験を長浜さんは父母からの大切な贈り物だったと考えています。
4人の両親を看取られて、そのことについて本を書いて、御主人の父親 87歳 1992年 2005年~2011年の間に 3人の方を90歳代で看取っている。
自分で体験したことを血になり、肉にして自身につなげるには、纏めることが大事だよと言われていて、義理の父が亡くなったた時に悔いの残る死で有ったので、悔いのないようにしようと考えてその間、努力した。
何が問題だったのだろうかと、物の本質が見えるというか、そういったことを感じるので、20年間のことを纏めて私自身の死を迎える事に対して、生きる自信にしたい。
看護師だったので死に関しての興味、関心が高かったことがあるので、書く事に依って見送りができた。
45歳の時代でしたが、義父がその朝に限って自転車で転んでじっとしていて、実家の方にも連
絡があり、病院行って骨折だと言われて、手術をしたが、その後55日目に亡くなってしまった。
もう少し何かできなかったのかと思いが強く残った。
主人は長男としての役割を果たせたと、あまり考えてなかった。
看る 五感を使って看る。
主人との話し合いをした。
①これからの人生に起こる様々な出来事に対して、今まで以上に一つ一つ真正面から対峙 してゆこうとの覚悟。
②いままで、出会ってきた死を振り返って考える。
③死についてさらに学び続ける。
④わたし自身のどんな死に方をしたいのかを考える。
アメリカで研修を2年間行う。
45年ぐらい前 大学を卒業して直ぐに行ったので、患者さんに接する機会はほとんどなく出掛けることになった。
4名の患者を見ることになるが、闘病、死に向かう立ち向かい方が何となく違うと感じた。
ニューヨーク、ヒューストン 小児科、外科、婦人科、癌科などの部署に行った。
死に向かっても自然で、生の延長線上にあるという様な感じだった。
死に向かう態度が、忘れられない方がいる。
ある患者はすぐなくなるような患者で、接するたびに微笑んで、有難うと言う事が口を見ると判る。
5分ごとに行くが私をにこにこ迎えてくれて、あのにこにこはいったいどこから来るのかと思った。
もう一人、女性の方で、目がはっきりいっているようで、私はもうなくなってゆくの、あなたは判るでしょう、あなたはまだ若いのだから頑張っていい人生をおくってね、私は自分の人生で満足よ、と言った様に私は感じた。
義父が亡くなってから13年間のなかで重症筋無力症になり、入院することになり、身近に死を考える事になった。
義理の母の最後の言葉は私の手を握っていたときに亡くなったが、普通にはなせた。
どうして、どうして判るの と何度も言った。 してほしいことをどうしてわかるのかという事。
じっと見ていると理由が解る。 私の患者体験が影響していたと思う。
義理の母から評価してもらったと思う。
亡くなる直前、朝身体を拭いたりしていて、それを夫の妹さんが見せてと言われたので見てもらった。
父親は、私が子供のころから、死後の事を言っていた。
自分が死んだら、①葬儀をしない、②介護入らない、③よけいな事はしない。
余計なことはしないという事は判らなかったが、延命処置だという事がその後判ってきた。
70歳代になり、④献体に出してくれと言う様になった。
80歳で老人ホームに入ったが、追加があり、⑤ここで死ぬ ⑥ここの主治医にお願いする。
これを実現する事が親孝行かなあと思って、迷いは全然なかった。
私の祖母は99歳まで生きて長寿だった。
父がよくいっていたのは、歳とってまで生きている気持ちは僕は判らないよと、何回か言ったのを印象深く覚えている。
父が90歳代になって言ったのは全然違っていて、若いころそう言ったけど自分自身が90歳になってくると僕はもっと生きたい、本を書きたい、まだ書きたいテーマがあるから、死にたくないと言っていた。
遺品の中に時計があって、刻印があり見て驚いた。
「2005年5月14日。 (誕生日) 満90歳の記念に購入 阿部哲雄」 と書いてあった。
あと何年生きようと思っていたのか、生に対する思いを感じる。
親は子供の足を引っぱてはいけない、子供たちがやりたいように生きればいいんだから、それを応援するのが親である、と父は昔からいっていて、老人ホームに入った。
母は69歳ぐらいから、老人性鬱病がありまして、入退院して、アルツハイマーにもなり90歳まで生きたが、21年前ぐらいの時から老人性鬱病でずーっと看る、見送りで、本当にたいへんだった。
73歳の時に老人ホームに入って、この間に3回世界クルーズに飛鳥に乗って行った。
母は父が亡くなってから3回骨折を起こして手術をしていて、回復が凄くて、アルツファイマーもよくなってきたりして、水泳もこなす様になった。
わたし自身に看送りの覚悟はできていたので、主治医に話して了解を得て家に帰ることができた。
京都は在日韓国人が多くいて、(40年以上前の話)内科病棟で勤務していたが、亡くなるのが間近に判っていて、息子は主治医に掛け合って、母を家に帰らせてほしいと言ったが、言い方は病院は元気になって帰るところで有り、死んで帰る処ではない、亡くなるなら自宅で死なせてあげたいと、だから返してほしいと物凄く真剣に話していて、主治医を説得したことが印象的だった。
最後の砦でなければならないなと思っていて、それができたなあと思っています。
今度は私の番ですよ、ちゃんと死に向かっていきなさいよと、此の世にうまれた使命が果たせる努力をして生きたいという様な気がしています。