2014年3月25日火曜日

坂本博士(音楽家)        ・音楽に感謝して60年(2)

坂本博士(音楽家)         音楽に感謝して60年(2)(再放送) 2014.2.10
三陸との絆を音楽に乗せて
体調を崩したことをきっかけでミュジックスクールを設立、創作ミュージカルの製作に力を入れるようになり、公害、災害、ファミリーミュージカルまで甦恩範囲を広げました。
43年前三陸海岸の普代村を訪れ、津波を取材したことから、今回の震災では普代村でミュージックスクールのメンバーと共に絆三部作、音楽で愛と希望と勇気を、の復興支援コンサートを開きました。

ミュージックスクール 子供たちへの音楽を通じての教育だと思います。
この国を背負ってゆく、子供たちになにか感動だとか、夢、勇気、希望を音楽によってさらに感じてもらいたい。
小さい時に良い本を読む、良いものを見る、そうすると自分が主人公になったような気持ちで嬉しい気持ちになったりするので、それが音楽と言う芸術を通じて自分がもっと感じる感性の部分を教えてゆきたい。
気が付くと40年ミュージックスクールを続けている。  卒業がない。
人生いろいろ有って、伴侶を亡くしたりして、落ち込んだ人が音楽を通じて取り戻すという事が沢山ある。
日本人はどちらかと言うと静かなタイプで、オペラでの手を広げて、希望を出してくれと言っても様にならない、歩き方も様にならない。
どこか気持ちが詰まっていて、日本の音楽が世界へ出てゆくときに足りない部分だと思った。
歌っていればいいという事だけではだめで、殻を破って表現する、いろんな総合的な勉強をしてもらう為に、この学校を作った。

バレー、楽器の勉強も必要、歌も楽器も共通しているのは身体から音を発する、呼吸法全てが同じなんです。
素質を伸ばしてゆく為にはある種の勉強は必要。 個人の特徴を見出す。
音楽 音学 音が苦 いろんな勉強をできる学校を目指そうと、それが総合芸術として作った。
反応はとてもよかった。  
個性にあったものを教えなくてはいけないが、それを見つけるのは教える先生の技量がないとそこまで言えないので、重要。

3・11で自分自身に強く来た。 TVをひねったら、すさまじい光景、を見た時に同じ日本人としていたたまれなかった。
作詞家でもない自分が、希望の道、絆を作詞して作った。
自分の気持ちを音楽の力でどうにかしたいという、気持ちだったと思います。
吉永淳一 友人の作家がいるが、自分が体験して、出てくる言葉が、出てきて、曲になったというのがこの三部作です。
43年前に岩手県の普代村に取材に行った。 吉永さんが、昔大きな津波が来て、この津波を自分が物語を書きたいので、一緒に取材に行ってくれないかと言われた。
彼は津波の話をミュージカルにしたかった。 「海から黒い蝶が来る」と言うタイトルだった。
取材して翌年に上演した。  
津波が来て、そこに住んでいた人たちがどういう未来を考えてゆくかと言う話。

43年前の話をしたが、その時に集まった人々はあまり関心はなかったが、大震災がその後にあって、その時にも直後にいったら、同じ人達が来たが、中学生などは目の色を変えて聞いてくれた。
感動して、学生が「坂本先生有難うございました。 今度、僕たちがこの普代村を復興します。
僕たちの責任です。 有難うございました。」と私の手を握ってくれた。
作った曲を演奏して、合唱団と一緒に熱い気持ちで歌い終わった。
災害、被害に遭った人々を題材にしたものが、多かった。
「いたいいたい病」 のことを吉永氏が書いて、私が演奏した。
握手をしたが、巧く握手できない。 座れないのでござを敷いて貰って、そこでいたいいたい病の歌を歌った。
50人ぐらいを前にして歌ったが、この思い出は長い音楽人生の中で初めてだったし、自分も感動したし、皆さん手を合わせて拝まれるようにされて、音楽家として忘れられない思い出です。
ミュージカルに公害、災害をテーマにして捉える。
音楽の力で上演する事に依って、そういった人々を勇気付けたりする、それだけですね。

川を綺麗にする、家族への愛、作りたいと思って作った。
第一作目が「小鳥になったライオン 」 お母さんが力は弱くても修行していらっしゃいと、得意な喉を使って聞かせてあげて、最後は力ではなくて優しい気持ちで村を修めていったという話。
 (神様はどんな子供にも素晴らしいものを挙げている、だから皆頑張ってほしい)
第二作目 ペンキー いたずら者がやがて地上に降りてきて、これ以上いたずらをしたら、流れ星にしてしまうという定めをしょってきて、地球の子供たちと協力して、汚いところをペンキで塗ってゆくという話。(芸術祭で優秀賞を取った)
(星の子と、地球の子が仲良くなって、一緒に地球を綺麗にするという。)
第三作目 「パパの子守唄」  音楽科のパパ、最愛のママが大きな病になって亡くなってしまうが、ママの夢だったミュージカルをやってほしいという言葉をパパは大事にして作曲家のパパは作曲して、地域の人たちと一緒になって上演する、家族の愛がそこにあって、ママがいなくなっても協力してつくってゆく。(私がパパ役 ママ役は淀かおるさん)

山崎洋子さんとの出会いがあって作ったのがこれですね。  主役が友竹永則。
顔はオオカミなんだけれど、人は見かけではなくて、心が大事だという事を説いた。
主役はおおかみ 私が作曲をして、友竹さんも参加した。 (ファミリーミュージカルに軸足移す)
スクールの中にそういった空気が出てきていた。
オペラだけやっていたら、病気をしなかったら、こうなっていなかったのかもしれない。
私の音楽、キャラクターと共鳴した。
人が元気になってゆくのが嬉しい、音楽の持っているいろんな意味合い、良さを判ってほしい。
61周年の会の最後に「私は65年も頑張ります」と言ったら、みんなが拍手をしてくれた。
医者には成れなかったが、音楽の博士に、皆に希望や勇気を与えられるこんな自分に成りたいと思っている。
どこかに熱いものはあるが、まだ形がないが、元気なうちに岩手にいきたいと思っている。