2014年3月15日土曜日

八幡隆司(ゆめ風基金理事)      ・阪神淡路から東日本被災障害者の支援を続けて

八幡隆司(NPO法人・ゆめ風基金理事) 阪神淡路から東日本被災障害者の支援を続けて
56歳。学生時代障害児と出会い、障害者を支える道を志しました。
障害者施設の現場を経て、平成7年阪神淡路大震災を機に被災した障害者を支援するための基金、夢風基金のたちあげを呼びかけました。
2011年3月に発生した東日本大震災でも、夢風基金のメンバーは各地の障害者団体と協力して、混乱する被災地で障害者を探し出し物資やボランティア派遣の拠点を各地に作って、支援の手を差し伸べてきました。
阪神淡路、東日本、二つの震災の救援の最前線に立って、障害者を取り巻く社会にどのような課題が見えたのか、その課題は改善されてきたのか、伺いました。

最初に入り込んだときには、県外ボランティアと一緒に一生懸命にあたっていたが、2年目では県外と、地元の人達をやとうと言う風に入れ替わり、3年目は地元の人達を中心にした支援活動に変遷している。
1年目の夏から変わっていないというか、瓦礫はどけたが、復興住宅もほとんど立っていない。
悲壮感が益す様な形になっている。
夢風基金からお金を出して、地元の人を雇用して、支援に当たるという仕組みを作っている。

大学で障害者の世界に勧誘を受けた。 「どんぐり」と言うグループ名
自閉症児の親の会をサポートする会だった。
大阪教育大学の中にあるサークルだが、実際は親御さんが会議の間、お子さんをお預かりして一緒に遊ぶような活動をやっていた。
地学を専攻して高校の先生になる予定だった。
有る一人の自閉症児の家庭教師になるが、あなたたち学生さんは卒業すると家の子達の事は忘れてしまうんでしょと言われて、ずンと来て、この道に入るきっかけになった。
姉が精神障害を発病して、入退院を繰り返す、又母が認知症だった。
子供が殺害される事件があり、母がその家にケーキを買っておいて行ったら、警官には犯人が戻ってきたと判断されて、TVの報道で母が犯人の様に報道された。
その時に教師よりも福祉の道へと決断する。(犯人は自首して来たので誤解は解けたが)

詰問されると誘導されてしまう事もあるので、判断力が厳しいので、人がついていないと犯人扱いされてしまう場合もある。
知的障害者が働く場に来ないかと言われて、就職を決めた。(大学を中退して)
主に企業からの内職仕事で、タオルを折るとか、段ボールをくりぬくとかの仕事、学習活動として買い物の訓練、陶芸などもやっていた。
就職に結びついた人もいる。 訓練と実際に社会に入って頑張るのとの違いを感じた。
自分たちでそのまま就職先を作ってしまおうと、障害者労働センターを設立した。(24歳の時)
色々やってゆくうちに、目鼻がついた。 
生活のサポートをしてゆく事も柱にした。
応援してくれていた議員が止める事になり、自分たち自身で議員を作ったらと言う事で、私に白羽の矢が立ってしまって、立候補して、31歳で市議会議員になった。
4期16年間やった。

地方主体の福祉から国の方に向いてやるようになってしまった事、現場を離れていたこともあり止めてしまった。
1995年阪神淡路大震災が起きる。 障害者救援本部を作った。
つぶれた障害者施設の支援、ヘルパーへの支援、食べるもの、着るものなどの必要な数を届ける支援などをやる。
震災が起きた時の障害者の悲惨さを目の当たりに見る。
いろんなニーズがこちらにやってきた。
夢風基金、 3~4カ月たった時に長続きしないといけないので、5年10年支援できる団体が必要だという事になり、立ち上げに加わった。
始めたのが6月、段々と著名人の呼びかけもあり、1年後ぐらいに寄付金などが集まってきた。
ボランティアにしても夏休みで終わってしまった様な状況だった。

基金は市民の皆さんのお金。 各個人の寄付金。 
10年間きちんきちんと振り込んで下さる方も多かった。
2011年東日本大震災 支援にも真っ先に出かける。 
阪神淡路と  障害者が避難所に来てないという事は全く変わらないという事はあるが、岩手などは福祉が遅れていて孤立した障害者も多い状況だった。
津波の被害と、直下型地震の違いはあり、障害者を発見するのに非常に苦労した。
街ごと無くなっているという事で、しんどいところだった。
知的障害者は障害者とは認識されていないという様な事もあって、受付にいっても障害者の事は判らないという様な状況にあった。
早い段階で各県で障害者支援センターを作ってもらったので、そこから中心にボランティアを派遣して、物資を届ける、最初は医療物資、次に車椅子、杖とか、物資を届ける事が3カ月ぐらいの中心と成る。

多動の子供、大きな声を出す、暴れ回る人は周りに迷惑をかけるので、人手を出して、体育館から出て一緒に過ごすようなことが必要だった。
安心して過ごせるような駆け込み寺みたいなものを5月の段階で作っている。
阪神淡路大震災の時は、障害者の居やすい場所を作ろうと、福祉避難所と言う言葉ができた。
公民館に障害者を集めたのが始まりだった。
東日本大震災では、帰るに帰れない様な状況になり、そのまま留まって、福祉避難所と言う様な形になった。
福祉避難所を二次的に開けますよと言う事でなくて、最初から福祉避難所が入れるようにしておかないと障害者が入りにくい状況にある。(バリアフリー、トイレなど含め)
心のバリアをどのように取り除くかと言う事が一番問題になってくる。
地域の学校、福祉センター いろんなところに場がないと難しい。(選択ができる事)

昔よりも障害者と社会の人とのかかわりが薄くなってしまったと思う。
有資格者しか障害者とかかわりが無くなってきてしまった様に思う。
普段からかかわりが必要だと思う。
近所の力を借りるという様な仕組み作りが必要だと思っている。
阪神淡路大震災の時は夢風基金他とあわせ、1億5000万円で2~3年を乗り切った
今回は1年目で3億円が出ていって、毎年1億円ぐらい投じないと行けないような状況にある。
機関紙をだして、読んでくださって、小さな寄付の集まりがすごいパワーになっている。
夢風基金も来年で20周年になる、新しい枠組みと継続のし無身作りで頭を痛めている。
日常の福祉をよくして行く事を大きな目標にしながら、普段の防災力をやりながら、災害にも役立つという事でやらさせていただいています。