2014年3月24日月曜日

坂本博士(音楽家)        ・音楽に感謝して60年(1)

坂本博士(音楽家)         音楽に感謝して60年(1)(再放送) 2014.2.9
昭和29年東京芸術大学を卒業して、藤原歌劇団に入り、歌曲、」オペラなど舞台で活躍されて、昭和39年の東京オリンピックの年に、「歌おう世界の友よ」で、歌と司会に大活躍されました。
82歳のいまも歌手、作曲家、、指揮者、演出家、プロデューサー、ミュージックスクールの校長、奉仕活動と言った幅広い活動をされています。

ピアノが好きで、坂本家は割とお医者さんが多い、母は医者にしたかった。
ピアノの存在が私にとって、強かった。 ピアノの先生が厳しかった。
芸大のピアノ科に行こうとしたら、水谷達夫先生(ピアノの先生)が浪人しないと難しいだろうといわれて、歌を習っていた先生(城多又兵衛先生)がピアノが難しかったら、声学科になったらどうかと言われて、ピアノを諦めて、声学科に行った。
身長は高かった。 182cm  こないだ計ったら180cmだった。
卒業して友だちがオペラをやったらどうかと、藤原歌劇団でオーディションがあり、藤原先生に気に入っていただいて、入ることになった。 
藤原義江先生 (男性) 舞台映えがして、父親がイギリスの方、母親が日本人で、容姿、声が日本人離れした声で、テノールはイタリア系統が多くて、独特な藤原節と言って独特な声を持っていて、大変人気のある方だった。

昭和28年がTVの本放送で、当時TVを持っている人はほとんどいなかった。
友人、バリトン 立川清登  友竹正則さんとは学校は違ったが、彼の存在は大きかった。
五十嵐清さん (歳が1つ上)等がいた。
TVは力道山をやっていた。 ラジオ屋さんで群がるようにして、見ていた。
TVのテスト的な事で呼ばれて、行ったりした。 自分を自分で見れるとは、なかなかなかった。
NHKで随分歌った。
東京オリンピックを盛り上げるために、国を挙げて作った番組「歌おう世界の友」
いろんな国家を歌うので、気を使った。 それぞれの国の言葉で歌う。
昭和38年から東京オリンピックに向かって番組をやっていった。
NHKも大変力を入れていた番組でした。
モノクロとカラーでやっていた。  モノクロの良さはある。
身長が高かったし、ても長かったので、色々注文が多かった。

藤原先生は豪傑な人だった。 テノール 
生放送で、違う歌を周りが解らない様に平気で歌詞を歌ってしまったりした。
ペギー葉山さん、越路吹雪さん、草笛さんだとか、そういう人たちは同じポピュラーのなかでも、クラシックの中間と言うか、クラシックの人たちに手をさしのべて、一緒に相手役としてやってほしいと、きっかけがあって、出て行った場面が結構多いですね。
クラシックの音楽を大事にしてくれたプロデューサーの人たちもそういったことをきっかけに、クラシックの人達をいざなっていった。
TVに出たことによって変わったですね。
直立不動で歌っていたが、TVに出ると相手役が踊りがうまくて、多少なりとも動かなくてはいけなくて、振付が来てくれて踊らされる。
辛かったけれども、そのうちにいろんな勉強にはなった。

物凄いスケジュールだったので、1日で2本のオペラをやったこともある。 
舞台を降りて若い人たちと話す、青春のいろんなことを思い出します。
皆時を忘れて、語り合ったものです、そしてその中から新たな音楽が生まれるんですよ。
私の出たオペラ、カルメン、蝶々さんだとか、外国のオペラなので、こういう人たちの話を聞いているうちに私は日本人なんだから、日本の何かを作ってみたいと気持ちが段々ときました。
暮らしの窓の番組でレギュラーをしていた時に、横隔膜が痛くなって、寺島 尚彦さんの伴奏でやっていたが、救急車で運ばれて入院した。
全国から励ましの手紙を頂いて、その中から私は日本人の叫びというか、日本人の心と云うか思いを、テーマのある事をやるべきだと思った。

教えること、教わること、 気持ちの交流が私の音楽に次第に芽生えてきた。
音楽を通じて、教える、教育 音楽の中に一杯含まれている。
一生を通じて歌わなかった人はいないはず。
札幌のろう音が終わって、旭川に行く途中、若者が来て、私は炭工夫だったと言う。
或るとき、同級生にあうと上から見下ろされたりするようにいわれ、ガールフレンドにあうと、どうしてと言われたと、ショックを受けたけど、頑張ったと、ところがあるときに、落盤事故に会って先輩は殆ど亡くなってしまった。
又力強い歌を歌って僕たちを勇気付けて下さいと言われて、あっという間に降りて行った。
ボタ山を見ながら、この話をオペラ、ミュージカルでもいい、形に拘らずなんかの表現でやってみたかった。
社会派ミュージカルとの所以はその辺から出たが、自分では社会はだとかは意識していなかった。

昭和44年 ミュージックスクールを設立。
教えることが好きで、病気をした時に、学校を作ろうとした。
いつ治るかわからない自分に手紙が来て、頂いた手紙が凄くて、自分の使命は教えることだという事に思いがなってきた。