2014年3月7日金曜日

リシャール・コラス(化粧品会社社長)  ・世界に伝えたい日本人のこころ根

リシャール・コラス(代表取締役社長 フランス化粧品会社)   世界に伝えたい日本人のこころ根
目立たないけど、きらりと光り輝き、読者の心を揺さぶる優れた作品に贈られる、赤いバラ大賞に、昨年の秋にリシャール・コラスさんの作品が選ばれました。
コラスさんは東日本大震災の被害に遭われた方々に、会社を挙げて支援し、フランスの方々に大津波の実態を伝えようと、波と言う小説を書きました。
コラスさんは母国では小説家として知られていますが、日本では化粧品メーカーの代表取締役社長を20年続けています。

日本に来てから40年近くなる。
顔だけではなくて、自分の考え方もそうなってしまいます。
日本に住むと考え方も変わってしまいす。
日本に来て1年ぐらいの時に、フランス人の神父さんにあって、60年間日本にいた人だった。
朝起きた時に鏡を見なさいと言われた、日本人より日本人になるように努力したら、お前の顔は違うんだよ、郷に入れば郷に従えで、 でも時々おい お前はフランス人だよと教えてくれる。
日本人以上に日本人らしくなりたいという若い人はいる。
日本人と接触して、深い文化に入ってもいいんだけど、どっかでいつもフランス人だと小さな声が、バランスを取った幸せな人生を送ることができた。
妻は日本人で5人の子供がいるが、日本語、フランス語、英語、イタリア語が飛び交う。

私はモロッコ育ち。(60年代) 
父は一つの文化を持つよりも多くの文化を持った方が人生は楽しいよと言っていた。(ブレンドした文化)
私は妻よりも日本文化を大切にしている(節分、五月人形、七夕 等など)
鎌倉に住んでいて、離れは畳の生活をしている。(浴衣、じんべい等着ている)
父が言っていた、そこ国の気候に一番合っているのは、その国の洋服だと。
モロッコのジャラバと言う着物は砂漠地帯での暑さ、夜の冷え込みに適応する。
父はパイロットだったが、映画を作っていた。 
カンヌのアマチュアフェスティバルがあり、2回ほど優勝している。
私は日本に来る予定はなく、ブラジルに行く予定だったが母から反対された。
父が日本の文化を見に行ったらと言われ、日本のカメラに興味もあったし、日本に行く事になる。
18歳の時だった。

日本人そのものに惹かれてしまった。
当時外国から見て、日本人は詰まらないと思った。 日本人は笑わない、表現しない、我慢して。
日本に来たら楽しい民族、飲む事、食べる事、歌う事、泣く事が好き。
だから、良い意味でのショックを受けた。  日本人はどうしても誤解されやすい。
モロッコからフランスに1年帰った時に、パリの人は凄く閉鎖的だと思った。
日本の文化は深い井戸見たいに潜るほど、面白くなる。
例えば茶道、やり始めるときりがない、その深さは切りがない。
始めたのが遅かったので後悔している。
日本の文化は皆そんなに深いと思う。

東日本大震災の時は飛行機の中だった。
ホテルについてTVを付けたら、大変なことだと思った。
日本にすこしでも恩返ししたいと思って、寄付をしたが、これだけで良いのかと疑問に思った。
被災地には40日後、気仙沼に行った。 ホテルには泊まれるようなところは無く、車の中で寝た。
ライフラインが丁度戻ったところで、風呂にはいれるようになった状態で、これからは人間の心を面倒を見てほしいと言われた。
避難所は女性ばかりで後は、子供、年寄りだった。
何ができるかと思うと、会社の関係から女性の面倒を見る事だった。
スマイルイン東北と言うプログラムを作って、年に数回、いまだに続いています。
仮設住宅で生活しなければならない人がいっぱいいるので、社員を30人ぐらい連れて行って
やっている。
彼女らは女性の化粧だけではなくて、人としゃべる事が上手。
心の中にある悲しみを隣りの人には同じような悲しみを持っているので話せないので、我々、彼女らに話してくれる。  
心の中にある重さがでて、話してくれるので笑顔になってくる。  彼女らにも逆に影響される。

私はフランスに帰ったら、原発ばっかり考えるようになった。 フランスは原発が多いので。
「波」と言う小説を書いた。 被災された方を聞いた事、私が見た事、事実です。
最初日本での出版はしないと思っていたが、パリに住んでいた日本人の若い女性が気仙沼出身の人で、お母さんを津波で亡くした人で、彼女に読んでもらって、彼女は日本人にもこれを証拠として残してほしいといわれた。
私の出版社が来て話してくれて私も日本で出版する事を納得した。
フランスでのタイトルは「田んぼの中の海」 反響があった。  印税は全て東北に寄付している。
小説は宗助達を通して、被災2週間後の気仙沼をドキュメンタリーで綴っている。
宗助のひいおばあちゃん(菊)は家族と一緒になって、彼の家では3月3日には必ずいろりを囲んでおばあちゃんの話がある。
その話は、ずーと以前、おばあちゃんが若かったころ、津波に襲われたその話をおばあちゃんがしてくれて、2011年3月3日にも話があって、3月11日に大震災が起きた。
この国を深く愛しているし、日本人大好きで、日本人には成れないけれども、日本人の心を理解しているとは今は思っている。 40年経ってやっと。

日本人は自分のことを低く見る。 
何故外人が、お前たちの文化は最高だよと言わなくてはならないのか、不思議です。
40年経って日本も変わってきているが、他の国と比べて、スローペースで変わってきている、いい意味でのずれがある。
「遥かなる航跡」 日本に来て直ぐに書いた小説で2006年に出版。
富士山に登ったり、香川の金毘羅さんにいったり、神戸の御屋敷、倉敷のいくち島でバスの中で知り合ったところに行って、一緒にいくち島近辺を見ながら恋をして、その光景を書いているのを読んで、日本人以上に日本人らしいと思った。(インタビュアー)
私は日本への抵抗感は何にもなかった。
小説の中に描かれている、日本に対する思い、繊細な心を持っている、生け花の心に引かれる、お茶、礼儀正しい、しとやか、いろんないい言葉が出てくる。

絆 建前だけになってしまった。 がれきはどこの県でも断った。
なんで同じ日本人でがれきなんていらないというのが、凄いショックだった。
建前は絆と言いながら本音は東北では東北の問題だと、だから「おもてなし」は言葉だけにならない様に注意してほしい。
「おもてなし」はあなたから、受けた、頂きました、私はあなたに「おもてなし」を上げているという事ではなくて、そこだけは気を付けてほしい。
「おもてなし」は自然的に出してほしいと思っている。
新たに小説を書いているが、鎌倉の畳の部屋の掘り炬燵のところで小説を書いている。
書いていて途中で、主人公がリードしてくれるので、そこは任せたい、そうなるまでにはちょっと時間がかかるが。