大山勝幸(カキ生産者合同会社代表) ”水産特区”での復興にかける
東日本大震災から間もなく3年、震災で大きな打撃を受けた水産業を立て直そうと作られたのが水産業復興特区です。
これまで漁業共同組合に与えられてきた漁業権を、民間企業にも与えるもので、その第一号として、石巻市にある桃浦かき生産者合同会社に漁業権が与えられました。
会社の代表が大山勝幸さん67歳、大山さんはカキの養殖をしていましたが、津波で自宅やカキの養殖施設をながされました。
全てを失った中で大山さんはカキ養殖を再開しようと、特区の構想に仲間15人と共に手を挙げました。
水産業復興特区と言う新しい漁業の枠組みの中で牡蠣養殖をどのように再生させようとしているのか、その道のりはどこまで来ているのか伺いました。
1Fは加工場 最新設備を備えたものと思っている。
最終まで自分たちで手掛けないと、水産業は立ちいかないんじゃないと思った。
兄が漁業が嫌だというので私に回ってきた。(一度は就職したが父に迎えに来られた)
カキの価格が段々上がってきて、カキ養殖が段々増えてきて昭和50年代が一番多かった。
浜の活気は有った。
仲買さんが高値で買ってくれて、カキはもうかると広がってカキ養殖に参入するという時代になった。 当然値段が下がってきた。
日本の人口がが減ってゆく中でこのままでいいのかと思う様になった。
10,11,12,1月 4か月がカキ剥きのフル生産 3月11日は外出する人が多かった。
津波が来ることは判っていたので直ぐ帰らないといけないと思って車に乗ったが、大渋滞をしていて、海岸沿いの道は津波で駄目との情報があり、内陸部の道を通って帰ろうと思った。
桃浦に着いたのは夜11時になろうとしていた。
避難所に誘導されて一泊した。
夜が明けてから、自宅に帰ったが、想像を絶する光景で、言葉が出なかった。
私の家は下が鉄鋼だったが、住めるような状態ではなかった。
津波の高さは10~13mは有ったと思います。
65世帯中62世帯が被災、ほぼ全壊。 カキ養殖施設は浜に打ち上げられていた。
打ち上げられなかったのは海に団子状になっていた。
湾の中は防波堤が横倒しになって壊れていた。 養殖は完全に無理だと思った。
小学校で避難所生活を送ることになる。 最初は生きる事に必死だった。
海岸部の嫁さんは内陸部の人が多くて、家に行って米や野菜を集めてきたので3,4日分は食べる事が出来た。
その後は支援物資が徐々に届く様になった。
道路は車が通れる様に人力、等で通れる様にした。
電気、水道が駄目で真っ暗でろうそくを集めるのも大変だった。 ガソリンがなくては行き来できないので、何とかガソリンの確保をやった。
日中作業して、汚れたままで寝なければいけなくて大変だった。
2ヶ月経ってから、これからどうしようかと考えるようになった。
がれきをかたずけたり、養殖資材を集めると日当が出るようになって、それらをやっていた。
養殖の再会の話はだれもしなかった。
魚協が再開するのしないのと聞きに来るが、漁港が破壊されていて、再開しないところは予算を付けないとの方針であることが聞こえてきて、話し合いのきっかけになった。
漁業をすれば予算がつくのかと言う事になり、資金、年齢等があり人数も少ないと再開は無理だという事になった。
TVが見られるようになり、水産業特区、民間会社のノウハウを取り入れて、復興するという道をひらくという事で国に働きかけたら国も認めたというニュースを見て、それもいいかなと思った。
中味が解らないとどうしようもないので、講演があるというので3人で聞きに行く事になる。
7人以上で会社を立ち上げないといけない、民間会社の支援を受けて、県も補助金を出す、漁業権も直接与える事が出来るというような内容だった。
これしかないなあと思った。
19人のカキ養殖がいたが、亡くなった人、廃業した人がいて、残った16人でいろんなことを話し合った。
従業員が、後継者が入ってくるような形にしないといけないと思って、生産、加工、販売、最後まで消費者に届けるような6次化産業でないといけないと思った。
推進派3割、疑問派3割、判らないという人3割という割合だった。
何かをやろうとするときには自分自信を知ることなので、自分たちにできる事は何かと思ったときにカキを作ることだと、販売は民間会社のノウハウは切っても切れないものだと思った。
民間の力を借りて、補助金も活用して、会社を立ち上げる事が大事なんだと思った。
自分たちだけでやっても給料の支払いの問題もあり、大事なのは人と人のつながりであり、民間の会社お願いしなければ永続的な経営はできないと話をした。
5月に話が出て、8月までには決めないといけないと思い、何とかまとまった。
(一人でやりたいという人が一人いて、それ以外はまとまった)
復興会を立ち上げる。 最終的に15人で行う事になる。
水産関係の卸をしている会社でノウハウはあるし関連会社が一杯あるのでふさわしいと思った。
我々の出資が450万円 民間会社の出資が440万円(議決権の関係上)
自分たちの会社なんだからというような意識に皆がなるには、ちょっと時間がかかった。
最初は赤字 なるべく早く水揚げしたいと思ってはいた。
今までは1月が出荷終了だったが、3月でも出荷する事になり、PRをしてもらって出荷した。
美味しいカキを出荷することが出来て、こんなおいしいカキを食べた事がないと電話が来て皆で喜んだ、
会社に漁業権があたえられたのは、昨年の9月だった。
一人前の会社として認められる手段かなと思った。
水揚げ額は少ないが、(以前の状態よりも3~4割)、
手ごたえはある。 出すと直ぐ買ってくれる。
復興は2~3割ですね。 いなくなった集落に人を取り戻すことが先ず第一。
きちんと会社が操業できるまでは頑張らなければいけないと思っている。