2014年3月12日水曜日

一條玉枝(南相馬市・花店経営)   ・花屋さんは被災地の憩いの場

一條玉枝(南相馬市・花店経営) 花屋さんは被災地の憩いの場
被災の傷はまだ十分癒えたわけではありませんが、自らの力で立ち上がろうと知る人たちの姿が少しずつ見られる様になりました。
南相馬市で花屋を営む一條さんは、震災後、再建したこの店の切り盛りをしています。
一條さんはもともと、南相馬市の小高区で地域の人たちの憩いの場と成る花の店をひらいていました。
震災と、原発で避難を余儀なくされました。
その後夫婦二人して、放射能被害の少ない地域に移り住み、店を再開しましたが、去年の夏、一緒に店を手伝ってくれていた御主人を胃がんで亡くし、二重の打撃を受けました。
しかし、今ではその痛手に打ち勝ち、地域の人達にも支えられながらお店を開いています。

「森の花屋さん」という名前の店
まだ昔のお客さんが来てくれていて嬉しい。
お客さんの表情もいろいろ、それぞれいろんな面でストレスを抱えて居いる。
今の店の鹿島区は原発から30kmのところにある。 もともとは小高区でやっていた(17km)
前は山沿いにあったので、森ではないが木が多かったので「森の花屋さん」にした。
以前は温室があり、水を引いて滝があり、大きな水槽を作って、又モンステラを植えて幻のモンステラの実をお客さんに御馳走して、とってもジューシーだった。
なかなかこの辺ではならないが、露天風呂を作ろうかなあとか夢があったが全部亡くしました。
主人はシクラメンが好きで、こんなに手入れすれば、こんなに大きくなるんだと自慢していました。
主人は「玉枝ちゃん」お花屋さんやってくれないかと言われて、「いいよ」と言った。
それまでは務めに行っていた。   主人は水道工事屋さんだった。

去年の7月22日に亡くなりました。
癌だとは親には言わないでくれと言って、何も話さなかった。
手術して、翌日に兄弟に言った。
優しくてお客さんにも慕われました。
店自体はそんなではないが、一歩入ると驚き、なぜならどこにもない店を作ろうといったのが始まりで、おおきなおか炉 (いろり) 檜で作った大きなものがある。
お茶を飲めるようにして、真中に炭を置いて冬は餅をやいたり、おむすびを持って来た人がそこで焼いたりして、わたしも随分御馳走になりました。
ここに来るのが皆さん楽しみで、花を見て、買っていってくれたりした。
場所と雰囲気が良かった。
お店のなかにお風呂があった。 小さい子が一緒に入ろうと言って、そういう子もいた。
遠くからも結構来ていた。    温かいお店だったが、そこも消えてしまった。
主人は風呂に入って一杯飲むのが楽しみだった。

物凄い地震で、中にいてはいけないと思ってお客さんと一緒に外に出て、立っていられなかった。
母屋が大きく揺れているのが解ったし、地面が割れてゆくのが見えた。
揺れが収まったころお客さんには帰って貰った。
主人は外で仕事だったが、帰って来てくれた。
原発の汚染は知らなかったし、何の連絡もなかった。
主人の妹夫婦が来て、泊って郡山の方に逃げて行った。
1か月近く近所にいた祖母の面倒を見ていた。
周りはだれもいなくて、地域の人達の犬猫、牛などに餌をやったりしていた。
水道が破裂したりして、毎日のように小高区に行って直す作業していた。
ゆっくり休ませたいと思っても、なかなかできなかった。
その後、立ち入り禁止と言う事で、原町の仮設住宅に避難した。

私は辛くて、毎日毎日、花の仕入れ、バスの中で主人と寝泊りしていた。
鹿島観光協会の方からこちらの方に来ませんかとの話があり、土地を借りて店を建てました。
住まい半分、お店半分。  主人が活躍してくれた。
私にも内緒にしていたが、「どうして先生の名前を知っているの」と言ったら、お医者さんに行ってきたとの事で、まさか癌ではないでしょと冗談でいったら、癌だと言った。
信じられなくて、先生のところに行って、聞いたら悪性だと言われた。
奥さんには内緒にしてくれと言われたとの事。
奥さんも俺が具合が悪くなると、悪くなってしまう、俺と一心同体見たいに、怪我をするとお互いがけがをする。

具合が悪くなると、どっかが具合が悪くなる、本当に仲が良かった。
玉枝ちゃんも先生のところにいて、診察を受けてねと、先生にいつでも診察を受けてもらえるように言っておいたからね、といってあるからと言われたので行きました。
そうしたら私にも同じところに癌がありました、初期だったんですが。 私は良性でした。
私の癌を皆持ってってくれたんだと思いました。
怪我もそうですし、身体に支障があれがお互いが一緒なんですね。
3年前は店が無くなり、去年は夫が亡くなり、その2カ月後は私の母も亡くなり、振りまわされて、
がっくり来て、この人の後を追って死のうと思って、睡眠薬を飲もうとしたが、この人が亡くなる前に「玉枝ちゃん 俺は世界一幸せだったと、お前と一緒になれて本当に幸せだったよ、玉枝ちゃん 飯を一杯食べて、後を頼むからね」と(年寄り二人いるから後を頼むねと言う事だと思って)
私は心を入れ替えて頑張る様に成りました。

「俺は太く短く一生懸命生きたから大丈夫だよ」って、そういう人だから。
無念でした。
ここにきて、店を出して、一生懸命やっている姿を見て、「玉枝ちゃんだったら、やれるからね」と亡くなる前に言われた。
心を無駄にしないで頑張って行けるかなと、思うんですがとても辛いです。
あの人がいるから頑張ってこられたので、言葉を思い出しながら生きています。
日記を書いてくれた人だから全てが解る。
日記をみて、最後まで言わないでおこうと思ったが、医者の名前を言ってしまったので「玉枝ちゃん」には判ってしまった、と言うよな事が書かれていた。
知らないでいたら、とてもつらかった、女房として。

店も新しくなって1年になる。
知らない鹿島区でお世話になっているが、結構来てくださいます。
辛い思いをした人がたくさんいるのだと思って、そう思いながらいるが、辛いですね。
お客さんと出会って感動を頂いたり、喜びとかも頂いたり、励ましの言葉を頂いたり、やっていてよかったと思う。
お花を買ってくれたお客さんから「有難う」と言ってくれる、お客さんの声に励まされて毎日生きています。