2014年3月17日月曜日

川口重雄(丸山眞男手帖の会代表)  ・丸山眞男(マサオ)に学んだ私の生き方

川口重雄(丸山眞男手帖の会 代表)   丸山眞男(マサオ)に学んだ私の生き方
戦後民主主義の理論的リーダーと言われる政治学者、丸山眞男の生誕100年の年です。
丸山は敗戦直後の著作で日本軍国主義の精神構造を判り易く分析したり、日本の思想などの著作が教科書などに取り上げられたり、当時の若者や社会に大きな影響を与えました。
東京、田園調布学園で教諭をしている、川口さんは学生のころから丸山の著作に親しみ、卒業してからは丸山を囲む会に参加しました。
丸山が各地で発言した内容を活字にして世に出す、丸山眞男手帖の会の代表も務めてきました。
川口さんは高校で日本史を教えていますが、生徒達の学習指導をする上でも、自分自身の人生を送る中でも、丸山の教えが生きていると話しています。

今年3月22日で生誕100年になる。
丸山さんは1914年に生まれて、東京帝国大学、法学部で南原繁 (戦後の東大の総長)のもとで研究者になり、戦時中から戦後にかけて、東大の研究室で戦争の時代を体験して、日本政治思想史研究の草分け、戦後は敗戦から復興し高度成長経済に進む中で、日本の社会を様々な角度から分析、解剖して、実際に私たちがどのような社会を作っていったらいいか、述べられている。
本業 政治思想史の学者  一方 時事問題のコメント、文章 エッセーなども書かれている。
丸山さん自身は東大在職中にも様々な後援会に出ている。
東大を辞めても、いろんなところに行ってお話をされて、市民の中に入っていって、一般の読者が一番ヒントを与えてくれると言っている。
兄が哲雄 元NHKプロデューサー 1910年生まれ 京都帝国大学卒業後NHKに入る。
哲雄は弟を連れて、寄席、映画、新国劇等に通う様になる。
2.26事件の時に様々な情報を兄から教えてもらったといわれる。

私は早稲田大学の日本史を専攻。 国語の教科書に「である」ことと「する」こと 高校生として読むべき100冊にあげられていた。
大学で昭和50年 51年に丸山さんの20年間の文章を集めた、「戦中と戦後の間」と言う本が出版されて、高校時代に読んだ日本の思想で出会った丸山は鮮やかに日本の社会を分析、解剖している。
大学2年の時に出会ったときは、血の吹き出る様な、日本の近代の歴史が持ってきた様々な問題を、矛盾を真正面から引き受けて、それについて一生懸命 これからの日本と言うものはどうして行ったらいいか、問題意識の溢れた文章で、本当に誠実な思想家、学者が立っているなという感覚になってしまった。
卒業論文を丸山さんのことを書いた。

丸山さんに初めて有った時に、どうして読んだんですか、と言う事から始まった。
私の一つの質問に30~40分話すようなおしゃべりな人だった。
80年代から95年まで12回 丸山さんを囲んでお話を聞きました。
カセットテープにとって、96年8月15日にお亡くなりになり、安藤さんが中心になって録音した物を何とか活字にできないかと言う事で、97年4月に丸山手帳の創刊号を発行した。
年4回 足かけ17年間やってきた。   (丸山眞男手帖の会)
飯田泰三さん 丸山さんは本当に東洋政治思想史と言う講義をやられる時はほとんど徹夜で、講義案を取り組んで、朝出かけてゆくときに、靴を右左取り違えても判らなかったという様な話もある。

命日に副書の会  20世紀を生きた、第一次世界大戦、関東大震災、戦争の時代、ファシズムの時代、戦後の民主化、高度成長時代を誠実に生きた学者の考えた事、述べた事を次の世紀にバトンタッチしたいという事で、丸山さんのこと知っている方、読みこんでいる方に声をかけて、西暦2000年の8月15日から 昨年まで14回にわたって副書の集いを行ってきた。
第一回は丸山ゼミのゼミ生出身の朝日新聞の早野透さんと現代政治の思想と行動を編集された松本昌次さん、その後は作家の井上ひさしさん、ジャーナリストの筑紫哲也さん、評論家の加藤周一さん、沖縄県知事だった太田昌秀さん等を呼んでお願いした。
昨年は三谷 太一郎さん (東大名誉教授)
楽しそうに語る人が多い。 丸山さんに対する敬愛の念が現れてくることが非常によくわかった。

井上さんは創立当時から会員だった。
講演依頼をお願いするのに無理かなあと思ったが、二つ返事で対応してくださった。
癌を発症された後も、丸山ゼミ有志の会をやっている。 1995年 オウム真理教事件
私の青年時代のことを思い起こすと、日本中がオウム真理教だったと、自分が信じできることと、社会が全く違っていた、と述べられたあと、横につながりなさいと言って、人々が市民として横につながって社会を変える事も出来るし、豊かな社会を、お互いが活発にコミュニケーションをすることに依って、そういう社会を作って行けるという事で、横につながりなさいと言っている。
私の青年時代は一歩外に出れば、日本の外に出れば全然通じない理屈が、日本の中だけでは
堂々と通用して、それ以外の議論は全然耳にもしないし、問題にもしない、もしそれを問題にする人がいたら、つかまったり、非国民と言われたり、散々なものだった。
戦前戦後も日本の社会は同じ仲間だとだけ話す社会だと、それではいけない、いろんな分野のフラットな横の関係でつながっていかなければいけないとおっしゃった。

98年に出版された「自己内対話」 書き残したメモから選ばれたタイトルになった。
1943年の段階で、異質的なものと対決せよ。  
1945年11月 一人ひとりの人間が独立した人間になることだ。 NOと言える精神が必要。
1969年 残念ながら忙しい評論家、タレント教授ほどそそっかしい読み方をしたりする、むしろ本当の読者は大部分は無名な熱心な勉強家だと、そうしてそういう人々こそ本当に怖い読者だと言っている。
「在家仏教主義」、大学の教授が演壇上で説教するものでなく、一般の社会人になった一人ひとりの人間が専門なお坊さんではなく、それぞれの家でそれぞれの環境で、民主主義なり、理想を実現してゆく言葉だと理解している。
東京工業大学の上田紀行さんと、韓国理科女子大学のパクチュンソクさんをお招きして、3月22日に講演していただく。
”横につながる”、丸山眞男手帖の会で様々な地域の方々と知り合う事が出来たので、横につながる事で私たちの社会の何ほどかを変える事が出来たら、問題があったらどうやって考えてゆくかと言う事に、回答なり、回答の手がかりになるのではと思っている。