2011年7月19日火曜日

嶋田しづ (画家87歳)       ・漂えど 沈まず 油絵・・・パリ

嶋田しづ (画家87歳)     漂えど 沈まず 油絵・・・パリ  
<概要>
大正12年 樺太 サハリン生まれ  
昭和13年家族全部東京 中野に移る 
1942年女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科西洋画部卒業 
その後絵だけでは満足せず早稲田東洋美術史に入学
1958年渡仏。パリにて個展、グループ展、フランスのサロンに招待出品
(サロン・ド・メ、サロン・ドートンヌ等)。
1971年第3回絵画国際フェスティバル展(カーニュ=シュル=メール美術館)招待出品、民族賞  1978年帰国   パリ時代の経歴等を話す

良き先生に出会う  「常に自分を磨け」 「常に先を向いて仕事をしなくてはいけない」
学徒出陣 ・・・「残った人間が何かを後に伝えなければならない」と言う気持ちが一杯だった
美学をやっても哲学をやっても自分に才能がないことが判り、絵があっていると云う事を確信する→油絵の道へ
1955年二季会展で新人賞 1956年優秀賞 1957年(34歳)二季会最優秀賞 
1958年パリに留学 1~2年で帰るつもりだった
横浜から船で45日 言葉も問題 本格的には勉強してなかった  
誰も知らない中を何とかやってゆく
エッフェル塔の向かいに住む その後20年間日本語を一度も話したことはなかった
「ゴールド・パリ」でその間仕事をしてきた 
パリに来て一番最初に見た絵はルーブルに向かってゆくと「ジュドポーム」という美術館があって
(今は国立写真美術館)アンリ・ルソーの54歳の時の作品「蛇使いの女」それを見た時涙が出て、涙が出て止まらなかった
 
芸術というものは、やっぱりこれほど人に感動を与えるものかと思った
(パリに来てよかったとつくづく思った)
言葉は片言でも絵が良ければ尊敬される 当時日本人女性はいなかった
何じんでもいいから絵で勝負したいと思っていた 1956~1960年代が最高だった  
パリには当時世界の文化人が集まって来ていた
グループ展とか個展とかを開いたりひと旗あげるためにはいろいろサロンに出掛ける  
1971年海外国際フェスティバル展の民族賞受賞
10年ぐらいたつと壁にぶつかる マンネリズムに陥る  
これを破って次の世界に進むのは辛い 皆エポックを切り開いて新しい世界に入ってゆく
一過性のものではなく、自分が続けることによって、切り開いてゆける

それが本当に絵画を通して人々を感動させるものなんじゃないでしょうか
1978年日本に帰ってくる どこにも属さないで描いている
「漂えど 沈まず」・・・パリで見付けた言葉 自分の性格とも一致する 
散々咀嚼しながら一番いい方法で自分の進むべき道を考えながら仕事をするという意味
矢張り人間は作家であっても純粋な気持ちでもって仕事をしなければ、恐ろしい事に必ず作品に出てくる
2~3点見るとその人の体質が見えてくる
絵画もうまいだけじゃ何の足しにもならなくて、人間の心の泉というか それが自然に出てきて知能と技術が非常にナイーブな気持ちが、そこにダブるようにそこに集中されてこそ、人が本当に感激するんだと云う事が私の経験から人の絵を見ると判る

親から頂いたDNAの有り難さもあるし、自分が無理をしない 
食事においても節制して 適当な運動をして 頭を絵だけじゃなくいいと思うものは、絶対に音楽であり、文学であり 演劇であり 映画でも良い しょっちゅういいものを身につける 
自分の好きなことばっかりやってたんじゃいけない  
苦手なものは苦手なように切磋琢磨して自分の中に取入れて 人間が如何に素晴らしく 収容力と言うかそういうものを持つことが、絵画を通しても通じねばならない  
そうじゃないと絵を描いている張り合いなどない  
出来る時に出来るだけの一番いいことをやろうと思っている