菅野政夫(個人育種家) ・友を悼む赤いダリアから始まった育種家への道
交配を繰り返してそれまでなかった花を作る育種の世界、菅野さんは最初からはなが好きだったわけではなく、衝撃的な出来事がきっかけで花の世界に入ったそうです。
オステオスペルマムの育種をしています。 オステオスペルマムは南アフリカの原産でキク科の植物です。 夕方、曇天、雨の日のは閉じる性質を持っています。 閉じない花を作るという事で日本で開発されました。 出来たのは平成4年ごろでした。 オステオスペルマムの花の色は白、ピンク、パープルの3色程度でした。 改良を重ねてきて、最近は色々な色があります。 私が作ったものでは色が3,4色に変ってゆくというものがあります。 狙ってできるものではありません。
最初から育種家になろうと思ったわけではありません。 別に花が好きだったわけはありません。 私が中学1年生の時に夏休み前に起きた集中豪雨のよる土砂崩れで一家全員が亡くなった災害がありました。 同じクラスの女の子で、弟も自分に良くなついでくれていた子でした。 彼女の一家の告別式がありましたが、家でふっと窓の外を見た時に、真っ赤なダリアが目に飛びこんできて、電気が身体を貫くような感覚を覚えました。 あの花を告別式に持って行ってやりたいと思い、祭壇に手向けました。 1年後、2年生になった時に先生がダリアの球根が余っているから欲しい人がいるかと言ったので、真っ先に手を挙げていただきました。 家に持ち帰って埋めておきました。 忘れていたが、8月下旬に真っ赤なダリアが咲き、思わずアッと声が出ました。 1年前に感動したダリアの花も今回咲いたダリアの花も、覚えているのが1日だけでした。
中学卒業後就職しましたが、通信機関係の仕事で自分には向かないと思って辞めてしまいました。 突然赤いダリアのことを思い出しました。 花には人の心を感動させる力があると思った時に、そういう仕事がしてみたいと思いました。 自分が行きたかった夜間の普通高校に行くことを決意しました。 1年後に入学しました。 就職する段になりましたが、行き先が決まっていないなかかで、先生が声を掛けてくれました。 先生の実家が種苗店を営んでいて、その関係で先生が2社に手紙を送って下さいました。 1社は自分の知っている会社名だったので、そちらを受けることにしました。 農場の花の仕事を希望したが、いい返事がもらえなかった。 兎に角花の仕事がしたいという事を力説して、なんとか入社する事が出来ました。
そこの会社の農場長との出会いが大きかったと思います。 案内されハウスにはオステオスペルマムの最盛期で花が咲いていました。 目を見張るような光景でした。 その日の夜は興奮して眠れませんでした。 ここでの最初の5年間は無我夢中で働いたのが、凄くよかったです。 不器用なほうですが、農場長、先輩からいろいろ教えていただきました。 誰でも最初からは何もできないんだからと励まされました。 農場長からは一株が持っている性質の幅を段々広げてゆく事を教わりました。 新しい花を作る、育種を将来はやりたいと思いました。
本を読んで勉強もしましたが、本を読んだだけではわからない。 迷ったら現場に行って観察するしかない。 観察力を養う事は3っつ目の農場で出会った直属の上司から教わったことは計り知れないものがあります。 農場長からは「私は仕事を始めて50年以上になるが、50年以上たってようやく最近判りかけて来たんだよ。」と言われて、私にとって重い言葉でした。 今でもわからないことはいっぱいあるが、分かろうとする努力は必要だと思います。 家族には何時も花がある、そういったことを夢見てしまいます。 育種家になるのには相当資金が必要です。 自分ではコツコツ貯めてはいましたが、退職のお祝いの食事会をしてくれた時に、妻からのプレゼントがありました。 これから資金が必要でしょうからという事で目録として手渡されました。 嬉しかったです。 妻の後押しが無かったら、出来なかったことです。 妻が喜んでくれる、お客さんが喜んでくれるという事が理想な形です。 品種登録は妻と連名にして提出しています。
オステオスペルマムは妻は嫌いだと言っていましたが、アッと妻が振り返るようなオステオスペルマムの花を作ってやろうと宣言しました。 昨年の春に花売り場を妻が眺めていて、「貴方の作るオステオスペルマムは色も形もずっと綺麗。」と言ってくれました。 夢は青い色のオステオスペルマムを作りたいと思っています。 香の付いた赤いカーネーションを作って、母親と妻の母親にも贈りたい。 (二人とも亡くなっている。) 母親を思い出すような、心が和むみたいな香りを作りたい。 感動を届けられる花の仕事をしたい、感動は自分にとって最大のキーワードになっています。 花は人に感動を与えてくれる力がある。