頭木弘樹(文学紹介者) ・〔絶望名言〕 三島由紀夫
三島由紀夫は1925年1月14日生まれ、今年生誕100年に当たります。
「鈍感な人たちは血が流れなければ狼狽しない。 が、血の流れた時は悲劇は終わってしまった後なのである。」 三島由紀夫(「金閣寺」の中の言葉)
代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などの戯曲があります。 16歳の時に「花ざかりの森」と言う小説でデビューしている。(戦争中) 一作一作を遺作のつもりで書いていたと言っている。 三島由紀夫のところにも召集令状が届くが、入隊検査が昭和20年2月10日で、この日から中島飛行機小泉製作所(群馬県)が大空襲を受ける。 この工場にいたら命が無かったかも知れない。 入隊検査でも気管支炎になって熱が出ていたので、軍医から家に戻された。 三島由紀夫が入隊するはずだった部隊フィリピンに行ってほぼ全滅している。 助かったというような気持も書いているが、自伝的な小説のなかで「私が求めていたのは何か天然自然の自殺である。 それなら軍隊は理想的ではなかったのか。」とも書いています。 自分だけが生き残ったのは負い目みたいなものがあったのかもしれない。 20歳で時代遅れになった自分を発見する。 これには途方に暮れたと書いている。
先の「金閣寺」の中の言葉ですが、「金閣寺」は31歳の時に書かれたものです。 後から考えると割腹自殺を想起させるような言葉です。 最近は更に鈍感になってしまっていないか、三島由紀夫のこの言葉を噛み締めたい。
「自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿を認めてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛して貰おうなどと考えるのは甘い考えで、人生をなめてかっかった考えです。 と言うのは、どんな人間でもその真実の姿などというのは不気味で、愛する事の決してできないものだからです。 これにはおそらくほとんど一つの例外もありません。」三島由紀夫(「不道徳教育講座」の中の告白するなかで、と言う文章から)
ありのままの自分を愛して貰おうなんてとんでもない、告白なんてするなと言っています。 三島由紀夫には「仮面の告白」と言う小説があります。 告白はするがありのままの自分ではなく仮面をかぶっているわけです。(23から24歳の時に書いた作品で作家として確立)
「弱いライオンの方が強いライオンよりも美しく見えるなどという事があるだろうか。」 三島由紀夫(「小説家の休暇」より)
これは太宰治に言った言葉です。 三島由紀夫は生涯に渡って太宰治の悪口を言い続ける。 三島が大学生のころ太宰に会って、「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです。」と言っているんです。 太宰に対して「最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた作家も珍しい。 太宰が持っていた性格的欠陥は少なくともその半分は冷水摩擦や機械体操や規則枝的な生活で直されるはずだ。」と言っている。 三島由紀夫は元々身体が弱かったが、鍛えて身体を作り上げた。 だからこういう風に言いたかった。 太宰を嫌う理由は似ていたいたからではないか。
高校生からのインタビューでこう答えている。 「いろんな似ているところもあるんですよ。 似ていたらしゃくに触るしょう。 太宰に対していつも危険に感じるのは、もし自分が太宰を好きで、太宰におぼれればあんな風になりゃあしなかったって、恐怖感がある。 だから自分は違うんだと立場を堅持しなければ危ないと思った。」 太宰と三島は両極端にあると同時に似ているところがある。 太宰は心中して、三島は割腹自決する。
「音楽会に行っても私はほとんど音楽を享楽することが出来ない。 意味内容にない事の不安に耐えられないのだ。 音楽が始まると私の精神はあわただしい分裂状態に見まわれ、ヴェ―トーベンの最中に昨日の忘れ物を思いだしたりする。」 三島由紀夫
「あらゆる種類の仮面の中で素顔と言う仮面を僕は一番信用致しません。」 三島由紀夫(林房雄宛ての手紙の一節)
「仮面の告白」の編集者は坂本一亀。(坂本龍一の父親)
「素顔で語る時、人は最も本音から遠ざかる。 仮面を与えれば真実を語る。」 オスカー・ワイルド(三島が好きだった人)
「傷つきやすい人間ほど複雑な鎖かたびらを織るものだ。 そして往々鎖かたびらが自分の肌を傷つけてしまう。」 三島由紀夫(「小説家の休暇」のなかの言葉)
続きがあって「しかし、そんな傷を他人に見せてはならぬ。」と言っています。
三島由紀夫は中々一つのイメージには纏まらない。
「幸福って何も感じない事なのよ。 幸福ってもっと鈍感なものなのよ。」三島由紀夫(「夜の向日葵」と言う戯曲 から)
例えば胃が痛くなければ、胃のことなどは考えない。 感じないでいられる、鈍感でいられるという事が、幸福なんですね。 敏感で傷つきやすい人であるからこそ、幸福をこういう風に定義するわけです。
「時間の一滴一滴が葡萄酒の様に尊く感じられ、空間的事物にはほとんど何の興味もなくなりました。 この夏は又一家そろって、下田にまいります。 美しい夏であればよいなと思います。」 三島由紀夫(川端康成宛ての手紙の一節 1970年7月6日) 三島が割腹自決した年。 川端康成とは親交があり、自殺した時にも現場に駆けつけた。
前年の手紙に「ここ4年ばかり人から笑われながら、小生はひたすら1970年に向かって少しづつ準備を整えてまいりました。」と書いている。 随分前から計画をしていた様です。
「死んでみて初めてその人の一生の言動は運命の形をとるわけですから、我々は死の地点から逆に過去の方をすっかり展望して初めてその人を落ちこぼれなく批評することができるわけだ。」
最後は「不道徳教育講座」の中の死後に悪口を言うべきと言う文章の一節です。
「我々は死者のことをなるたけ早く忘れたいのです。 憎まれ嫌われていた死者のことほど早く忘れたいのです。 そのためには褒めるに限る。 ですから死者に対する賞賛には、何か冷酷な非人間的なものがあります。 死者に対する悪口はこれに反して、いかにも人間的です。 悪口は死者の思い出をいつまでも生きている人間の間に温めておくからです。 ですから私は死んだら私の敵が集まって飲んでいる席へ行って、皆の会話を聞きたいと思う。 全くいい気味だ、あのいけずうずうしい気障な奴がいなくなって、空気まで綺麗になった、本当だよあんな阿呆に良く長い事世間が騙されていたもんだ、あいつは馬鹿なうえに大嘘つきであいつと5分も話していると反吐がでそうだった、こんなことを言っている連中の頭を幽霊の私は易しく撫でてやるでしょう。 私はどうしてもぴんしゃん生きているうちに、私が言われていたのと同じ言葉を死後も聞いていたい。 それこそは人間の言葉だからです。」 三島由紀夫