松浦・デ・ビスカルド篤子(「シナピス」副センター長)・難民支援 たった一人を助ける
松浦さんは教会で難民支援にあたっている社会活動センター「シナピス」の副センター長を務めています。 松浦さんはカトリックの一家に生まれ、神戸市で育ちました。 大学で神学を学んだあと、教師となり中学校と高校で社会と宗教を教えていました。 そんな中、松浦さんは聖書学者の太田道子さんと出会います。 太田さんはパレスチナの女性らを支援するNGOを創設し、聖書の学問的研究にとどまらずその実践を進めていました。 松浦さんは太田さんの活動に共感し、太田さんが所属していた教会の組織に転職します。 その後松浦さんは助けて欲しいと教会にやってきたアフガニスタン人との出会いが難民支援に取り組むようになりました。 日本は難民認定されるケースが少ないと指摘される中、どのような思いで難民の支援に取り組んできたのか話を伺いました。
幼稚園の頃は積極的な正義感の強い子でした。 小学校ではいじめられておとなしい子になって行きました。 女の子がいじめられていて、先生が仲裁に入るのかと思ったら、松浦立ちなさいと私が立たされました。 「その時お前は何をしていたのか。」と言われました。 私はいじめられるの唯見ていただけでした。 いじめっ子を怒るのではなくて、傍観者だった私を怒ったんです。 それ以来クラスは強い子が弱い子をいじめようとしたら、周りからやめろ止めろと言って、変って行きました。 私自身は納得できませんでしたが、「冷ややかな傍観者になるな。」と言うメッセージは 、60年生きてきてもまだずっと奥のなかにあります。 小学校2年生の時にまじかに死をみました。 虚しさ、生きている意味は何なのか、死んだらどうなるのか、恐怖が膨れ上がりました。
そういった思いが救われたのが、ミッションスクールの授業でした。 「ただ他者のために生きることが人生の名に値する。」と言う言葉でした。 怖さ、虚しさがふっと消えていきました。 大学では神学科の道に進みました。(1982年) 1981年にに日本は難民条約に加盟しました。 ボートピープルが日本に入ってきて2,3年程度の人と出会いました。 関わっていけたらいいなあと思いました。 卒業後教師となり大阪のミッションスクールの中学、高校で社会と宗教を教えました。 語学研修でアメリカまで行きました。 ラオス、ベトナムとかの難民と知り合い難民の実情を知る様になりました。
太田道子さんの講演会が私の背中を押しました。 アメリカ、イスラエル、ローマ、パレスチナで研究を重ねた聖書学者。 1980年帰国、1995年にはパレスチナの女性を支援するNGO「地に平和」を創設、研究だけではなく実践にこだわった人物です。 講演の最初に、創世記の言葉「貴方はどこにいるのか」と言う言葉に衝撃を受けました。 どこに立って物事を考えているのか、誰のところに立っているのか、そういう風に聞こえました。
1991年にはじまった湾岸戦争で、避難者移送で自衛隊機派遣に反対し、民間機をチャーターを計画、寄付を募ると数億円が集まりました。 2機をチャーターし避難者の移送を実現する。 太田さんはこの主要メンバーとして大阪の教会で活動していました。 松浦さんは直接会いに行きました。
教師を辞めてカトリックの「平和の手」という組織に転職しました。 戦争を未然に防ぐネットワーク活動をやろうという団体です。 外国人労働者が入ってきて、不当に解雇するなど日本で路頭に迷う外国人労働者がカトリック教会に駆け込むようになりました。 外国人労働者との窓口を作って支援するための事務局開設の仕事をすることになりました。
アフガニスタン難民で、日本に来て会社員でしたが、アフガニスタンの人たちを助けるために走り回っている人でした。 イスラムシーア派の人でしたが、いい関係を作り上げました。 タリバンから迫害の標的にされている人たちが多くいましたが、皆家族などが殺されている人達でした。 チームを作って難民の対策をしました。 対応できた人は30名ぐらいです。 難民として認められたのは1割でした。 困難さをつくづく感じました。 口コミで難民救済のことが広がって行きました。
難民認定申請中の外国人は原則的に入国管理局の施設に収容されます。 その期間は長い人で数年間にも及びます。 難民条約批准国の中でも難民選定されるケースが極端に少ない日本は国連など複数の国際機関から制度の改善を求める勧告が出されているのです。 仮放免には身元保証人が必要で、保証人にもなることがあります。 100人近いと思います。
教会本部から少し離れた下町に難民の人たちに対するシェルター「シナピス」ホームがあります。 元々は韓国人シスターたちの修道院でしたが、シナプスが買いあげました。 中東、東南アジアの方が入っています。 難民の認定を待つまでこちらで保護します。
2021年春、アメリカ軍はアフガニスタンからの撤退を決め、再びタリバンによる統治が始まるといったアフガニスタンの人たちは、国外に逃れようとアメリカ軍機にしがみつきました。 飛ぶ立つ飛行機から振り落とされて地獄かと思いました。 直接私に電話をかけてきて助けてくださいと言うんです。 兎に角一人でも助けたいという思いが湧きました。 或る家族をパキスタンから日本に退避することが出来ました。 ほとんど報いることが難しい中で強制送還される人から、「貴方に会えてよかった。」と言われて救われた気がしました。