大西光子(主婦) ・「息子とともに 半世紀を生きて」
NHK障害福祉賞は障害のある人やその家族が綴った優れた体験記に贈られるものです。 大西さんは長年に渡る体験実践記録に対して贈られる矢野賞に輝きました。 大西さんは東京都在住の91歳、かつて小学校の教員をしていました。 4人目のお子さん曜介さんに脳性まひがあります。 子育てに奮闘しながら駅のエレベーター設置やグループホーム設置運動に力を注ぎました。 今回の入選作では陽介さんとの56年の日々を、当時の筆記を抜粋しながら振り返っています。
「障害のある息子と暮らしとぃます。 それは4人目の子供で上に兄二人、姉一人がいます。 夫と6人家族で暮らしていました。 今は夫が8年前に亡くなり長男も去年亡くなって障害のある息子と孫と3人で暮らしています。 息子は56歳、私は91歳になりました。」
曜介は1967年生まれ。 生まれた時には障害はなかったが9か月の時に突然高熱になって、入院しました。 病名は急性脳症と言う名前でした。 左半身麻痺になってしまいましたが、小さかったので障害というイメージがあまりありませんでした。 1歳過ぎても3,4か月の赤ちゃんと言う感じでした。 その後つかまって立つとか、段々と変化はありました。
「2歳半でお座りが出来る状態でした。 ・・・ リハビリの先生が曜介と一緒に転がりの練習をしてくださいました。 ・・・曜介が自分で転がりの練習をしてるんです。 わざと倒れて右手を出して支えるという練習をやっているんです。 これを観た時に私は感激しました。・・・教えてやれば段々出来るんだと思いました。」
都立障害者センターへリハビリのため週一回ぐらいで通いました。(2歳半ぐらいから) 5歳ぐらいで歩けるようになったのもリハビリのお陰だと思います。 教えるだけでは駄目で受け手の方でもそれを一緒にやろうという風に、両者が目的に向かってやろうという事が大事です。 小学校に入るまでは障害と言う意識は余り無かったです。 障害は直るという事はないので、その状態のままで生きて行かれるように、周りの環境を良くするために働こうとか思いました。
「息子を通じて参加した障害者運動が私の人生そのものでした。 ・・・晩年夫がふっと漏らした「あのエレベーターの活動は良かったね。」の言葉が私にとって最大の褒美でした。」
息子たちが養護学校に入った時(1974年)画期的な出来事がありました。 東京都が障害児の希望者全員入学という制度を打ち出しました。 遠足で電車に乗ることになりましたが、初めて電車に乗ったというのが半分以上でした。 いろいろ会を作ったり署名活動、請願したりして理解が進んで、鉄道の方も承諾して、市役所も実現しようという事で駅にエレベーターが設置されました。 運動を開始して5年ぐらいでエレベーターは設置されましたが、障害者専用とか、時間制限などがありました。 老人、妊婦とか全部制限が無くなるまでには16年掛かりました。
晩年夫がふっと漏らした「あのエレベーターの活動は良かったね。」という言葉は嬉しかったです。 母親からは「上の子たちに我慢ばかりさせるのは良くない。」という事を言われました。 なるべく一緒にしようとは思っていましたが。 反省はしています。 兄弟が弟の面倒をよく見ていました。
長男の言について
「曜介が長靴を履く。 そんな当たり前なことが私たち親子にとっては大事な経験なのです。 ・・・「健康な子なら直ぐに出来ているのに。」と私が言ったた時、高1の長男が「それだからこそそうやって練習する、努力することが意義がある、価値がある。」と言ってくれたのです。 私はその言葉を聞いたときには本当にうれしかったし、励まされました。」
次男の言について
「或る日次男の友達がやってきて、曜介を見て「なんだよこれ。」と言ったのです。 すると次男は「なんだよって、人間じゃないか。」と言い返しました。 ・・・世の中の冷たさを感じました。 弟を大切に思っている次男の強さに打たれました。」
長女の言について
「娘の言葉で忘れられないのは、「妊娠した時もしも障害があっても育てるから。」です。 思い悩みそして結論を出していたのでしょう。 私は曜介が急性脳症に罹り障害があると判るまで障害児を知りませんでした。 ところが兄弟たちは子供のころから障害の有る弟と暮らしています。 娘は子供を産むとき、そのように考えているのだと強く心を打たれました。」
エレベーターが出来た後は、これからは住まいの問題だと思いました。 当時は自宅か施設の二つしかなかった。 グループホームがぼちぼち話題になるころでした。 小平でもグループホームを作りたいなあと言いう気持ちになりました。 グループホームを設立しました。(20数年前) 6泊ホームで泊っています。 日曜には戻ってきて音楽を聴いて手足を動かしたりしています。
息子も50歳を過ぎて、最終的には命が亡くなると言う事になるので、幸せな死に方はどういうものだろうと思っています。 社会はどういった取り組みをしていったらいいのか、と言ったことを考えます。 長男はすい臓がんで亡くなり残念でした。 私がいなくなった時に曜介のことが心配です。