松崎しげる(歌手・俳優) ・〔師匠を語る〕 松崎しげる、西田敏行を語る
去年の10月俳優の西田敏行さんが亡くなりました。 松崎しげるさんと西田敏行さんの二人が無二の親友だったという事は良く知られていますが、松崎さんにとって西田敏行さんは人生の師匠であったとも言います。 無二の親友であり人生の師匠であるという二人のドラマ、松崎さんにお話しを伺いました。
彼の喜怒哀楽というものに洋服を着たような男、彼は晩年よく表現者と言っていました。 あの人は僕のお手本であったことは確かです。 お互いのいいところを完全に理解してくれるいい相手でした。 お互いに尊敬する部分は物凄くありました。 最近5年間ぐらいでよく言っていた言葉で「老いを楽しもう。」という事、僕が70歳を迎えるころでした。
西田敏行さんが生まれたのは1947年、福島県出身です。 中学を卒業後俳優を目指して上京、明治大学付属中野高校から明治大学農学部入学しますが大学を中退し、日本演技アカデミーで演技を学びました。 1970年劇団「青年座」に入団、翌年舞台「写楽考」で直ぐに主役を務めます。 1976年森繁久彌さん主演のテレビドラマ『三男三女婿一匹』で注目を集めたあとは、映画、ドラマでも活躍し、テレビドラマの『池中玄太80キロ』シリーズ、映画「釣りバカ日誌」シリーズ、NHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」、「八代将軍吉宗」など数多くの作品で主演を務めました。 又歌手としても1981年にリリースした「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットします。 東日本大震災と原発事故で被災した故郷福島の復興に様々な形で関わって来ました。 突然の訃報が届いたのが去年の10月、西田敏行さん76歳でした。
僕が柴俊夫さんの家に居候していました。 「坊ちゃん」の坊ちゃん役をやっていて、山嵐役の西田敏行がこの演技に魅了されて、そこから話が始まり会う事になり、そこから意気投合ですかね。 破天荒な役者さんという感じがしました。 即興の歌でお客さんを楽しませてくれました。 70年代前半は楽しい時代でした。 1977年紀伊国屋演劇賞、ゴールデンアロー賞を受賞。 私も「愛のメモリー」がリリースされるや64万枚の大ヒット、日本レコード大賞歌唱賞など数々の賞に輝き、第28回NHK紅白歌合戦にも初出場まました。 テレビドラマのオファーが来るようになりました。 「可能性があることは何でもやるんだよ。」と耳にタコができるほど言われました。
悲しい歌を歌う時に悲しい顔でうたったら、西田から「最初から何で悲しい顔をして歌うんだ。 何でもドラマというものがあって、段々悲しみが行くんじゃないのか。」 と言われました。 一つ一つの積みかさねがサビになってゆくんだと思いました。 1970年代後半に言われた言葉は、僕の歌い手人生の中で非常に的を得たアドバイスでした。
刑事ドラマ『噂の刑事トミーとマツ』に出演したころには、西田も『池中玄太80キロ』シリーズが始まって超多忙な時代でした。 朝5時に起きて夜中の2時、3時迄撮影をやっていたのが当たり前の時代でした。 そんな忙しい仲でも二人で飲んでいました。 忙しいなか、二人でお金を貯め込んでブラジル、リオのカーニバルに行くことにしました。。 渡辺貞夫さんと出っくわして盛り上がりました。 イグアスの滝へはヘリコプターで行きました。
2022年にリリースされた「夢に隠れましょう」は 松崎、西田の始めてのデュエット曲です。 ツーテイク目の時に西田が、「おい 大部飲んだな。 でも弱くなったよな。 でも好きな相手と飲んでいる時が一番楽しいな。 じゃあ今夜もいきますか。」という話を間奏で言ったら、そのまんま使われてしまいました。
訃報を聞いたときには立っていられなかったですね。 深呼吸をした後にとめどもなく涙があふれてきました。 本当に辛い一日でした。 見つめるしか術がなかった。 これで全て肉体が無くなってしまうんだと思った瞬間、奥さん、家族が耐えられなくなって号泣し、僕は「西田 日本一」と声を掛けずにはいられませんでした。
ラインからのメッセージ
「長く曲がりくねった道をたくさん歩いて来たね。 西田、まださようならは言えない。 ・・・僕の胸の中でさようならの言葉が、こんなに重くてこんなに残酷な言葉だったんだね。 今知りました。 西やんの肉体に思わず叫んだ。 「西田、日本一」 ・・・ 西田年行は喜怒哀楽が服を着たそんなような人間です。 半世紀僕は貴方と生きてきました。 思い出と共に生きていきます。 だからさようならという事はちょっと待ってください。」