2023年10月9日月曜日

石倉三郎                ・〔師匠を語る〕夢のような出会いを経て 恩人 高倉健の言葉

石倉三郎         ・〔師匠を語る〕夢のような出会いを経て 恩人 高倉健の言葉 

高倉健さんが亡くなられた2014年11月10日から」間もなく9年です。  恩人と言ってしまえばそれまでですが、私にとっては神ですね。  

高倉健さん、本名は小田剛一(おだ たけいち)さんは1931年(昭和6年)福岡県中間市に生まれる。 1949年(昭和24年)明治大学商学部に入学、卒業後スカウトされて東映ニューフェース第二期生として東映に入社します。 デビュー作は1956年の映画「電光空手打ち」入社からわずか一か月半で主役の座を射止めました。 人気に火が付くきっかけとなったのは1963年公開の映画「人生劇場飛車角」、その後日本侠客伝シリーズ、網走番外地シリーズ、昭和残峡伝シリーズの任侠映画を中心に絶大な人気を得ます。 

1976年に東映を退社してフリーになった後は、様々なジャンルの映画へ意欲的に取り組んでいった高倉健さん、1977年には「八甲田山」「幸福の黄色いハンカチ」で主演し、第一回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞します。 又国内だけでなくハリウッド映画や中国の映画にも出演、国際的にも日本を代表する映画スターとして知られました。  映画以外でもテレビドラマやテレビCMで唯一無二の存在でしたが、2012年81歳で主演した205本目の映画「あなたへ」が残念ながら、最後の映画出演となりました。 映画「あなたへ」が公開された翌年、2013年11月に文化勲章を受章、その時の会見で「作品選び、賞に恥じないものをやらなければいけないと思っている。」と次回作に向けた意欲を述べていました。  その叙勲からちょうど1年、2014年11月10日高倉健さんは悪性リンパ腫で83年の生涯を閉じました。

私が大阪から東京に出てきまして、アルバイトを始めて、20歳の終わりごろに青山の喫茶店で偶然お会いしました。  「かっこいいなあ」の一言でした。  私は近所のスーパーマーケットで夕方から深夜までバイトをしていました。  深夜に食事をしてその喫茶店によるというパターンでした。  行くたびに健さんがいらっしゃるんです。  3か月後ぐらいに或る時昼間の3時ごろにいたんです。  健さんがたまたま一人でいらっしゃるんです。 「さぶちゃん」おいでよと呼ばれて、「喧嘩が好きなのか。」と言われました。  そのころあることで喧嘩をして擦過傷が絶えなかったんです。 「将来夢でもあるのか。」といわれて、俳優になりたかったが、そんなことは言えませんでした。 喫茶店のママが俳優になりたいんだという事を言ってくれました。  「東映にくるか。」と言われ入れてもらう事になりました。  

通行人、キャバレーの客とかやりました。  「健さん」と呼んでましたが、周りの先輩たちから「旦那」と呼べと言われ、意を決して言ったら、「やめてよ、さぶちゃん気持ち悪いから。」と言われてしまいました。  又「健さん」と呼ぶようになりました。      北海道にロケに行った時に、演技事務の人がその他大勢の役どころを決めますが、その人は酔うと酒乱で駄目で、やられたのでやり返したんです。 それが大問題になり、僕には非がありませんでした。 東京まで広がりましたが、よくやってくれたという雰囲気があり僕は一躍有名になりました。  ところが干されました。  「辞めます。」と健さんに言ったら、「東映を辞めて、役者も辞めるのか。」と言われました。  「役者は続けたいです。」と言ったら、「首まで泥水に浸かる覚悟はあるか。」と言われました。 「はい」と答え置いてもらう事になりました。 良くしゃべるし、冗談ばっかりいうし、極めて普通のかたです。   

私が東映を辞めたのは1972年でした。 コントレオナルドとして活躍し始めたのが1980年代に入ってからです。  その間、坂本九さんの専属司会などをやっていましたが、或る時たまたま健さんと出会い、坂本九さんに紹介するような場面になり坂本九さんも吃驚してました。  健さんの映画は全部見ていました。  「冬の華」がいいなあと思いました。(1978年公開映画)  コントレオナルドは1983年ゴールデンアロー賞芸能賞を受賞。  突然健さんから電話が掛かってきて、吃驚しました。(なんで電話番号を知っていたんだろうという思いもありました。) 1985年にコントレオナルドを解散。   そのころ結婚しました。 結婚する旨を健さんに手紙を書きました。(式の当日は海外ということでした。)  式を終わって二日目に雨の強い日に、健さんから電話が掛かって来て、今から行くからと言われました。   家に来てくれて手紙も書いてくれてありそれを貰って、健さんはお帰りになりました。 冷

内容は風雪に耐えてここまでよくがんばったなという事で、 戒めの言葉を頂戴しました。「冷に耐え、苦に耐え、閑に耐え、競わず、争わず、もって大事をなすべし。」という言葉を頂戴しました。  1994年に市川崑監督の「四十七人の刺客」で主演が健さんで大石内蔵助役で、私が瀬尾孫左衛門という役をやることになりました。  感動しました。  NHKドラマの連続テレビ「ひらり」「すずらん」「だんだん」大河ドラマ「葵 徳川三代」「功名が辻」,BS時代劇「小吉の女房」などに出演。 

「四十七人の刺客」では23年振りで、「さぶちゃん、潮がみちてきたなあ。」と言われた時にはたまらんかったですね。  撮影の間中、凄く気を使ってくれるんです。      健さんも大風呂に一緒に入ってきたりして、腕立て伏せを始めたりして、一緒に我々もやらなくてはと思って一緒にやったりしました。  周りではやりたくなかったんですが。

2913年「あなたへ」でも共演させて頂きました。 長崎の漁協の役員役でした。 直談判して役に出してもらいました。  役を終わって帰らなくてはいけなくて、「冷たいな、変わったね君は。」とか言われて、後ろ髪を引かれる思いで帰って来ました。 その時体調の変化は全然気づかなかったです。   ちょっと小さくなったなあという感じはしました。  2014年11月10日高倉健さんは亡くなり、訃報が発表されたのは11月18日でした。  「えっ、そんなことはない。」と思いました。  実は今でも思っていますが。  どうしてここまでいろいろ面倒見てくれたのか全く判らないです。  人の道を矯正しようと思ったんですかね。  

高倉健さんへの手紙

「・・・健さんにお会いしたくて健さんの映画ばかり観ています。・・・健さんのお陰で俳優の世界にいれて頂きまして、50何年過ぎてしまいました。・・・ この世界でやる気があるのか、どこまで辛抱できるのか、これだよと、要はやる気と辛抱だよ。・・・酷い裏切りに会いまして、辞めるしかないかと思いましたが、・・・出した答えはちょっとだけ休もうと、・・・3か月経って戻って来ました。 ・・・1年ほど経ち何とかやっていけそうだと思っていた折り、健さんからお電話を頂きました。 ・・・頑張れよと身に余る光栄でした。・・・23年振りに「四十七人の刺客」でご一緒できる夢のようなことになりました。・・・「さぶちゃん、潮が満ちてきたな。」とおっしゃってくださいました。・・・日々不安に思いながらなんとか過ごしています。・・・」