2023年10月5日木曜日

小山明子(女優)            ・夫を亡くして10年。二度の"うつ"を経験

 小山明子(女優)            ・夫を亡くして10年。二度の"うつ"を経験

1935年生まれ、88歳。 ファッションデザイナーの勉強中にスカウトされ、1955年にデビュー、テレビ、映画、舞台で活躍しました。 1960年に松竹の助監督だった大島渚さんと結婚して、二人の息子をもうけました。 1996年に大島さんが脳出血で倒れ、夫の介護に専念、しかし介護疲れなどでうつ病になり、これに抜け出すのに4年かかりました。 2年前の86歳の時、今度はコロナ禍での経済面の不安から二度目のうつを患いました。 

いま鎌倉ペンクラブに所属していて、吉川久子さん(フルート)と二人で10月にやることになっています。(ペンクラブの例会)   大島渚さんは京都大学を卒業した後、1954年に松竹に入社、私が新人女優として入って知り合いました。 1960年「青春残酷物語」、1976年に「愛のコリーダ」、「愛の亡霊」1978年、「戦場のメリークリスマス」が40年前。  坂本龍一さんが今年亡くなられたので、「戦場のメリークリスマス」の音楽が特に流れました。  「御法度」などで映画界を活発にした監督。  大島さんが亡くなって10年。 大島は監督として素晴らしい監督だと改めて思いました。 1996年に脳出血で倒れ、介護に専念しました。 

私にはとても看病できないという絶望感があり、その時にうつになりました。  元気になって大島も復活して映画を撮るようになって、やれやれと思った時に十二指腸潰瘍穿孔で倒れました。  生きるか死ぬかという人と向き合って、覚悟が出来た感じです。  「手放す心」と言う本が私の心に響いて、過去の栄光、名誉など全て手放して、一から出直す心という言葉でした。 5か月入院して在宅介護が始まりました。  歩けないので、もう一回歩かせてみせるという事と、もう一回彼を復帰させたいという思いで、在宅介護11年やりました。 最終的にはそこまでいかなかったですが、大島と共に生きたという感があります。  テレビ、映画は出来ませんでしたが、講演はできて、皆さん介護には興味がありました。 各地に講演の仕事をしました。  NHKドラマ「海峡」にお母さんの役で2日間でいいからという事でしたが、ロケの時間に、たまたま大島が具合が悪くなり救急車で運ばれ、その後何とか行きましたが、病人を抱えて女優の仕事は無理だと思いました。

最初の鬱の時には、大島が映画を撮れないのではないか、自分でも仕事をキャンセルしたり、女優としては失格だという思いで鬱がどんどん広がりました。 水泳教室が鬱を抜け出すきっかけになりました。 主婦として生きようと切り替わった時期でした。 二度目の鬱は大島を見送って、乳がん、肺がんなどの大きな病気をしました。 病気も克服して楽しいことが出来ると思った矢先に、経済でつまずきました。  コロナになり講演のすべてがキャンセルになりました。  生きていてもしょうがないというところまで行ってしまいました。  食事もできなくなり、精神科に連れて行ってもらいました。  生活は華やかでしたが、自分では気が付きませんでした。  お嫁さんたちから提案があり、今までの付き合い方を改めて、無駄なものは省きましょうという事になりました。(生命保険、お歳暮等々、付き合い) 

長男は大学教授、次男は映画監督です。 大変な時には私はSOSを一度も出したことはありませんでしたが、私が頼んだ時には二人のお嫁さんは素直にやってくれました。    今は困った時、病気になったりしたときには全部話すようにしています。  二度目の鬱は克服しました。 週に一回水泳教室にいっています。 コーラスで童謡を歌ったりして、声を出すことが健康法にもつながって行きました。  自分で心がけて身体を動かすようにしています。  鎌倉ペンクラブでの活動、吉川さんらとマージャンを7時間ぐらいやっています。(一回/月) 家族ともマージャンをします。   

1935年生まれ、88歳。 高校卒業後ファッションデザイナーの勉強中に、雑誌の表紙に出たことでスカウトされました。  1955年「ママ横をむいてて 」でデビュー。 「新婚白書 」の時に大島が助監督について、「振袖剣法 」で私が選ばれて京都の撮影に行きました。大島と京都の街をデートしました。  礼儀正しく目立っていました。 父は女優になることは反対していましたが、母方の祖母は応援してくれました。 5年付き合って25歳で結婚しました。 5年の間に映画に50本出ました。 トータルで120本ぐらい出ています。 テレビでは「道頓堀」「あかんたれ」などにも出ましたが、関西弁には苦労しました。  

『いのち、輝く! もう一度メガホンを 大島渚を支えた介護の日々』2000年に出版。     『パパはマイナス50点 介護うつを越えて夫、大島渚を支えた10年』2005年に出版。    鬱病のことは最初は隠していました。 その後本で公開するように集英社の方から言われました。  私も自殺願望が出て、熱海に着いたら屏風瓦のところは柵が出来ていては入れませんでした。 家に戻って来て精神科に一か月入りました。(61歳 大島が倒れてすぐでした。)  当時は相談できるような人が居なくてつらかったですね。 典型的なうつ病になるケースは凄くどこか真面目で、ここだけは譲らないと言うようなものを持っている、そういった人がかかりやすい。  2008年、日本文藝大賞エッセー賞を受賞。  誰かの役に立つという事は生き甲斐に繋がります。