2023年10月17日火曜日

田中光敏(映画監督)           ・生き物のように動き出す映画を

 田中光敏(映画監督)           ・生き物のように動き出す映画を

田中さん(65歳)は北海道生まれ。  大阪の大学を卒業後コマーシャルの製作の仕事を始めました。 2002年公開の映画化粧師 KEWAISHI』で監督デビューを果たします。 日本の古きよきものや人間ドラマを大切なテーマとし、2013年に公開された利休にたずねよ』は、モントリオール世界映画祭で芸術性の高い作品に送られる最優秀芸術貢献賞を受賞しました。 2015年に公開された海難1890』は日本とトルコの合作で、二つの国の人々の助け合いを描き、日本アカデミー賞優秀監督賞を受賞しました。 このほど相続問題から家族の愛を描いた映画「親のお金は誰のもの 法定相続人」が公開され話題になっています。 これまでに様々な映画製作に取り組み物つくりの考え方に変化を感じているという田中さんに伺いました。

映画「親のお金は誰のもの 法定相続人」 舞台は伊勢志摩、真珠の養殖に携わる家族の物語、伝説の真珠をめぐる家族と成年後見人を描いた作品。 10月6日に公開。 映画で伊勢志摩を元気にしてくれないかという事で、相続と真珠養殖の家族の物語をドッキングして、脚本は小松江里子さんですが、映画がスタートしました。 小松江里子さんはNHKテレビドラマ「どんと晴れ」大河ドラマ天地人』などの脚本を担当しました。  両親が亡くなったのが7年前で、余りにも相続という事に知らなかったことに気付きまして、様々な方たちが相続という問題に対してどう向き合っているんだろうという事から、成年後見人という制度を知って、認知症とか相続の時に考えられない人たちの為にという事で、弁護士、行政書士が関わるが、他人が入るという事はどういう事になってゆくのだろうというところに興味があって、調べ出したのがきっかけです。

それぞれの立ち位置で見え方は違うと思いますが、相続という問題はこれから重要な問題になってくるなという事を感じています。  映画で伝えたかったのは、大好きな子供達、大好きな妻、大好きな家族を自分が居なくなっても、幸せでいて欲しいという思いで遺産を残すという方たちが、結果、亡くなった後に家族が喧嘩してしまうとか、いざこざが起きるという不幸なことが起きてゆく。 愛する人を守るためには相続と言うものを、考える時期に来ているのかなあと思います。 地元の人たちが本当によく協力してくれて、気が付いたら地元の方がスタッフの様にのっている。地元の人が自然に溶け込んで入っていて、地元の方も一緒になって作り上げた作品かなと思います。 

北海道浦河郡浦河町の人口1万9000人(当時)ぐらいの港町で生まれました。 映画館が二つありました。 父親によく連れて行ってもらい凄く楽しかったです。  大阪芸術大学へ進学して映像を勉強して、映画、コマーシャルとか映像のビジネスを考えるようになりました。 映画監督になるという事は全く考えていませんでした。 電通に就職して企画部でコマーシャルを作るところから始まりました。(1980年代) その後独立して全国で流れるようなコマーシャルを頂けるようになっていきました。 或る時スポンサーの社長から映画を撮らないかと言ってくれました。  映画をやることでコマーシャルディレクターとしての場所がなくなってしまうのではないかと思って、4年間お断りしていました。

2002年デビュー作の映画『化粧師 KEWAISHI』(石ノ森章太郎の漫画『八百八町表裏 化粧師』が原作を手掛けることになりました。  大正時代の東京の下町が舞台、化粧を通して当時の時代背景や女性達の強く生きる様を描き、「本当の美しさは何か」に視点を置いた内容になっている。  700人の女性にシナリオハンティングして、話を聞かせてもらいました。  「あなたにとって化粧とは」という質問に、9割は「スイッチだ」というんです。(メイクをすることで自分にスイッチを入れる。) クラインの前に起きたのが阪神淡路大震災でした。  被災した方たちがお風呂に入った後に、化粧品メーカーの方たちがお化粧をするという事をボランティアで行っていました。  涙を流しながらのお化粧でした。 「何故涙を流すのか」と質問したら「心が温かくなった。」「元気を貰える。」などという事でした。  化粧ひとつでそういうものになるものなのかと思いました。 化粧師 KEWAISHI』の最後の決めセリフになりますが、「化粧は心にするもの」というのを映画の中にしっかり入れようと思いました。

撮影中、急性腸炎になり夜中に点滴を受けながら現場に行くという事になりました。(5日間) スタッフの方々が経験豊富で優秀な方たちでした。 1本目でもあり空回りしたこともあり、本当に勉強になりました。  2003年にさだまさしさん原作の小説を映画化した第2作目『精霊流し』 50代になってから4作。 第3作目『火天の城』(51歳) お城を作った棟梁にスポットを当てた物語。 信長を支えた中に岡部又右衛門という棟梁がいて、本当に魅力的な人で、この人を描いてみたいと思いました。  山本兼一さんという作家に出会う事が出来ました。  

それが利休にたずねよ』(山本兼一さんの作品)に繋がって行きました。(2013年)  山本兼一さんが直木賞をとって、電話を呉れて「沢山の映画会社から映画を撮らないかと来ているが、権利を監督に渡すから一緒に映画をやろうよ。」と言ってくれました。    「海外で公開してほしい、出来れば映画のなかで本物を使ってほしい。」と言われました。   本物というのは、利休が使った、利休が作ったであろうというお茶の道具です。  借りるにあたっては山本さんは肺気腫でしたが、病院から通って奔走してくれました。 そういったなかで利休にたずねよ』は思いの詰まった作品として作られて行きました。 映画は大きなお金が動いて、凄くビジネスライクに考えていましたが、その先には映画を愛する人、映画に協力する人、そういう思いがあってこそいい作品、心に残る作品は生まれてくるのかなあと思います。 作品は生き物のように動いてゆくと感じた作品です。

海難1890(日本・トルコ合作映画) 大学の同級生が今、串本の町長で手紙を呉れました。約120年前に紀伊大島沖に座礁沈没したエルトゥールル号という船を命がけで助けた村人たちがいる。 その人たちを映画にしてくれないかという事でした。 最後にうちの町には金がないと書いてありました。 ほとんど無理だと思って町長、知事に言いましたが、やりたいという事で、ビラ配りから始めて、手紙を貰ってから10年です。  4年半経ってどこからの企業からも協力はしてもらえませんでした。  日本で一番大きな自動車メーカーの会長さんから声を掛けて頂きました。  映画が出来るかどうかわからないが500万円出資をする、何とか可能性を広げられるように、頑張ってくれと言われました。  その資金を元に動きだして、トルコの大統領に手紙を出しました。  

トルコの力がないとトルコとの合作は出来ない、会ってプレゼンさせてほしいという内容でした。 返事が来て40分間プレゼンの時間をやるからインスタンブールの大統領府に来いという事でした。  知事、町長と私で行きました。  何故この作品をやりたいかを話して、机を叩きながら涙を流して喜んでくれました。  アンカラで文化大臣とお会いしプレゼンをして同様に机を叩きながら涙を流して喜んでくれました。 この話は教科書に載っているという事でした。  僕に名刺をくれて、「エルトゥールル・ギュナイ」(座礁した船と同じ名前)だと言って、親が勇敢であれと言って僕にその名前を付けたという事でした。 冗談か判りませんが、「僕の名前を有名にしてくれるのなら、どんな手伝いでもする。」と言ってくれました。  トルコから日本に親書が送られて、日本の国を含めて動き出しました。 

5年ぐらい沢山のプレゼンをしましたが、なかなか動きだしませんでしたが、ネット上でエルトゥールル号のことが話題となって行って、かつていた会社の方から電話があって「映画製作は実現するかもしれないので、出資しようと思っている。」とのことでした。 言葉に出すと、言霊というんですか、物事は動き出してゆくんだ、と思いました。  積み重ねる力は奇跡を起こす、小さな力でも少しづつ積み上げてゆくとこんなことが起きるのか、と感じた瞬間でした。 映画つくりそのものが僕自身の人生の勉強みたいなところがあります。

38歳でコマーシャルから映画の世界に入り、化粧師 KEWAISHI』を撮り、二本目、三本目、今に至って、それは諦めずにやってきたことで、もう一つは映画つくりは好きだという事、人が好きだという事が、自分のものつくりを支えてくれました。 予算が無くて宣伝すらできなかった『天外者(てんがらもん)』という映画、「商都大阪」ひいては近代日本経済の基礎を構築した稀代の「天外者(てんがらもん)」・五代友厚の生きざまを描く。 三浦春馬という主演の役者が作品の出来上がりを見ることなく亡くなってしまった。  俳優、ファンの人たちが映画館、いろんなところに働きかけて、映画が沢山の劇場で公開されたり、映画祭で流れたりして、結果沢山の人たちに見ていただけるチャンスを頂きました。 一人ではない、仕事も、物つくりも、楽しみも、生活もあるという事を是非判って頂ければいいと思います。