2018年6月6日水曜日

飯島惠道(ケア集団代表・尼僧)      ・死別の悲しみに寄り添う

飯島惠道(ケア集団代表・尼僧)      ・死別の悲しみに寄り添う
54歳、長野県松本市にある尼寺の東昌寺の住職を務めています。
生みの母親が飯島さんを育てることができなかったため、生後すぐに寺に引き取られ、尼僧の母に育てられました。
好きな人生を歩めばいいと言う母の言葉に後押しされ、看護師としておよそ 5年間諏訪中央病院で終末期医療に携わりました。
37歳の時尼僧の祖母が高齢となり体が弱ってきたため寺に戻ります。
終末期医療の現場で飯島さんは沢山の死と向き合ってきました。
育ての親である先代の住職尼僧の母との別れも経験するなかで、2006年飯島さんは死別を経験した人を地域で支えようと「ケア集団ハートビート」を立ち上げ活動を行っています。

東昌寺は今は曹洞宗のお寺ですが、お寺が出来た時は臨済宗のお寺だったそうです。
4代目から尼僧が住職を務めていて、私で15代目のお寺です。
全国的にみると尼寺は少なくて、更に今は尼僧の数が減っていると言うことで尼寺の数も減少傾向にあると思います。
生まれてすぐに引き取られて、二人の尼僧さんに育てていただきました。
年上がおばあちゃん、その下の尼僧さんをお母さんと呼んでいて、血縁ではありません。
授業参観PTAにも参加してくれて、特別な子と言う訳では無く天真爛漫に私も妹(6つ違い)も学校に行けた気がします。
周りでは弟、妹がいるのに私には妹がいないということで、淋しさを感じて或る時に喋れなくなってしまって、縁があったらと思っていたら話があって、妹が出来たということらしいです。
祖母や母はとっても厳しく育てられたそうで、子供時代に判るようになってからこのお寺に来て、厳しく育てられ辛い思いもしたそうで、いまは時代が違うので子供の意志を尊重してのびのび育ててあげようと言うことで、育てたというふうに聞いたことがあります。
お陰で天真爛漫で居られたのかなと思います。

お経も自然に覚えて、月まいり(経ち日)に一緒に付いて行きました。
お坊さんだからかしこまりすぎないというか偉そうにとかせずに普通に話を聞くとか、親身になって話をするとか、それが基本なのかなということを体で覚えて行ったような気がします。
中学、高校ぐらいから将来はお坊さんになると漠然と思っていましたが、高校2年の時に
腎臓病の病気にかかって、入院生活を体験して、看護師さんの卵(実習生)が来て居て、そういう道があることを知りました。
看護学校の勉強をして看護師の道に進みました。
反対はされないで、何をしてもいいからお盆は手伝いに来てほしいとは言われました
5年間諏訪中央病院で働かせてもらいました。
地域医療に力を入れていて、やり甲斐を感じながら勤務できたと思います。
働き始めて死というものがとても怖くて、不全感というか、自分は何もできなかったということしか感じられなかったが、色々体験して家族のつながりを改めて感じたり、一生懸命に生き切ると言うことを実際に出来るんだと、生きざま、死にざまを学ばしていただきました。
生ききると言うことが、残された家族にとって大きな力で背中をおしてくれることにつながると、言うことを学ばしていただいたと思います。

40代の女性でがんが転移して、家で最後まで過ごしたいと希望して家族のことを思っていて、家族は家族でその方のことを思っていて、最初すれちがっていてお互いの本心を言わずにしていました。
本音を言った時に初めて家族が団結して、二交替、三交替の介護が始まりました。
調子のいい時にドライブに行くことになり、わたしも付き添っていって、一週間後には穏やかに息を引き取りました。
お母さんが好きだった薔薇の香りのローションを娘さんが塗って、旅経ちのスーツを着せてあげて、お母さんが好きだった音楽を流して、そこに居させていただけたことがありがたかったし、理想的な看取りが出来たのかなと思いました。

お互いにお互いを思いやる大切さ、お互いの立場に立って考えて行動することの大切さを学びました。
道元禅師の言葉 「同事」相手の立場に立って行動していきましょう、ということを改めて感じました。
その看護した方から「あなたの役目は仏教と介護の両方に風穴を開ける役目よね」と言われました。
そこから私の世界が広がり深まったと思いました。
グリーフケア、生老病死 病院ではなくて社会の中で看護師として実践して行くことが又新たなステージなのかなと思います。
私を育ててくれた尼僧さんが高齢になってお寺の仕事が大変になってきたこと、お寺が古くなってきて建て替え工事も本腰を入れないといけないと思ってお寺に帰ってきました。(37歳)

お坊さんとしての色んな事をそれからも学びました。
尼僧は自分で弟子を取ることはできなくて、檀家さんも取ることができなくて、菩提寺にはなれないお寺かといえると思います。
私のお寺は中小零細企業のような感じですが、かゆい所に手が届くような身近な存在になれると思います。
2011年から住職になりました。(7年)
病院で勤務している中で、ケアはできるが、亡くなった方の御家族に対して看護師は手が出せない。
御家族に対する関係性が必要だと思って、「ケア集団ハートビート」を立ち上げました。
グリーフケアを中心に活動しています。
死別の辛い体験を分かち合うことで心が軽くなり、次の一歩を踏み出すことが出来ると思っています。
信州大学の山崎浩司先生が冊子(スコットランドにあった冊子)を導入したいと言うことで、ケア集団ハートビートが和訳をして、さらに長野県中心地方で使えるような冊子にしようと言うことで「大切な人を亡くした時」という冊子を発行することになりました。

悲しみと向き合いつつ生きると言うことは悲しいことだが変化があるものです。
旅のようなものだと感じています。
乗り越えるという表現があるが、乗り越えると終わると言う訳ではなくて、行ったり来たりしながら反応の仕方、捉え方がちょっとずつ変わっていて、自分を大きくしてくれたり成長させてくれたりするものと捉えています。
先代が亡くなった時に直接に看取ることができなかったことに対して、自分を責める思いがあります。
他界した次の日に病院に行くことになってしまいした。
辛かったけれど受け止めるしかなくて、少し休ませてもらったが、待っていてくれる信徒さんがいることが判ってようやく腰が上がりました。
先代は他界するその日の朝まで、身体の悪い中をタクシーを呼んだりして月まいりに行っていました。

風穴を開けて風通しを良くして、どっちの世界にいる人も充実した人生を歩めるように私なりの風を吹かせたいと思っています。
尼僧には結婚に対して今一つ認知されていなくて、格差があるが、自分の気持ちに素直に生きて行って仏道も歩んでいければいいのではないかと思って、自分を振り返った時にこの人と一緒に居たいという思いの或る人との出会いの中で、結婚を決意し昨年末に結婚しました。
妹の子供が仏教の勉強をしていて、将来的には継いでくれるような意志を持っているので、時代に沿った形で継いでやって行ってくれればいいと思います。
今後も生き切れるような社会を作るところで、私にできることをさせていただきたいと思っています。