2018年6月29日金曜日

安野光雅(画家)             ・【人生のみちしるべ】鏡の国のボク

安野光雅(画家)             ・【人生のみちしるべ】鏡の国のボク
1926年大正15年生まれ、92歳、島根県出身
子供の頃鏡を畳の上に置いてそこに映る世界を覗きこみ、空想を膨らませて遊んでいたと言います。
終戦後徳山市から23歳で上京、小学校の教師として働きながら本の装丁の絵の仕事などを手がけていましたが、36歳で教師を辞め画家として独立、安野さんが絵本作家としてデビューしたのが1968年42歳の時です。
今年は絵本作家デビューから50周年です。
繊細な風景画を始め、多彩なテーマ、楽しいアイディアに満ちた絵本を次々に生み出し、国際アンデルセン賞を始め数々の賞を受賞されています。

「旅の絵本」が5年ぶりに新刊発表。(スイス編)
文字が無い絵本で、最初文字が無いからわからないと言う人がいたが、文字を通して説明的に理解すると言うのは、絵は説明なんかじゃないと言いましたが、判ってくれたかどうか判りません。
心臓にパイプを入れる手術、がんの放射線治療(10年前)をしましたが、現在元気でいます。
1時まで起きていてそれから寝て、8時頃には眼をさまします。
絵は昼も夜も描いています。
島根県津和野町の旅館を営む家に生まれる。
3月20日生まれなのでクラスでも小さく、学校が厭だった。
おはじきも持っていかなくてはいけなくて、おはじきは家にはなくて貝殻を持っていかなくてはいけなくてみんなと同じではなく厭だった。

絵は好きで勝手に色々描いていました。
絵かきになりたいとは小さいころから思っていました。
絵かきが一度家に泊まりに来て、軸ものを描いていました。
手本にすずめの絵を描いてくれましたが、すずめの絵を描けると言うふうにはいきませんでした。
絵描きでも宿屋の倅というのがいて茂田井武、ドボルザーク、児島虎次郎とかがいます。
児島虎次郎は大原美術館を作った大原孫三郎という人の友人でした。
京都の美術館を作った安藤忠雄がよく勉強していて、本から出てくる言葉があり気があいました。
終戦後、復員して先生にならないかという話があり、小学校の代用教員になりました。
教科書が無くて桜の花を断面図を描いてはなびら、おしべ、めしべがあり実になって行くと説明したが、生徒から玉椿にはおしべが無いというのがいて、確認したが本当におしべはなかった。
後で調べてみたらおしべが花びらに変化したということだった。
子供は色んな事を知っているものです。

19歳で兵隊に行きした。
両親は64,5歳で「年寄りを残していきますのでよろしくお願いします」、ということだったが私は先のことしか思っていなかった。
親の方は今生の別れと思っていたようだが、私はなんにも考えずに行きました。
陸軍だったが船舶兵で自動小銃一発で沈む様なベニヤ板の船だった。
敗戦の日は歩哨に立っていたが、上官が隠匿物資を何度も持ち出していた。
両親のもとに帰っていきましたが、触らないでと言われて着ているもの全部煮沸消毒することになりました。(しらみなどを全部殺す作業)
これで人間になったという感じでした。
代用教員の後、23歳で上京しました。
絵描きになる為にいつか東京に行こうと秘かに思っていました。
小原國芳さんが地方講演に来て、私の描いた絵に目が止まったそうで、玉川学園の創立者で、学校に来て絵の先生になってほしいとの要請がありました。
養運寺に泊って玉川学園に会うために通い、ようやくあえました。

玉川学園出版部で本の装幀、イラストなどを手がけた。
山手線を一周回ったが東京は焼け野原で、どこも同じだと思って、劣等感が消えると言うか、勉強すれば何とかなると思いました。
一分一秒無駄にしてはいけないと勉強しました。
「雲中一雁」という篆刻を見て2万円ということで買えなかったが、その時これなんだと思いました。(自分のことのように思いました、一人で生きていこう)
本の装丁の絵の話があり、百科事典20冊出るが、一つ書いてほしいということでその後要望もあり、同じテーマで16描かないといけない。
人の顔をそれぞれ違うので、よしやろうと思いました。(5万人いれば5万あるので驚かなくなった)

井上ひさしの「長屋の仇討」で堀部安兵衛をかき上がって、ポスターも貼られていて、
題名が変わりましたと連絡があり「犬の仇討」ということになったとの事。
ポスターをあらためて書いてほしいということで3日で書き上げ対応しました。
ヨーロッパに初めて行って、コペンハーゲンの素晴らしさに感動しました。
その後42歳で絵本作家としてデビューし、『ふしぎなえ』を製作。