2018年6月5日火曜日

久田恵(ノンフィクション作家)      ・予定より早く終の棲家へ

久田恵(ノンフィクション作家)      ・予定より早く終の棲家へ
北海道出身、70歳。 大学を中退して人形劇団に入り、その後様々な職業を経験し、シングルマザーが子連れで働ける場所を求めて、サーカスに入団します。
そのときのことを描いた作品「サーカス村裏通り」でノンフィクション作家としての地位を確立します。
1990年には「フィリピーナを愛した男たち」という作品で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。
この賞は2005年には息子の稲泉連さんも受賞しています。
久田さんは親の介護をしながら自宅の一階を劇場に改造して、人形劇に熱心に取り組んできました。
この春栃木県にある高齢者向け住宅に移りました。

栃木県に移って空気感、風景、気候みたいなものが身体にしっくりきます。(故郷のような感じ)
取材で来た時に、となりが牧場で、微かな香りがして子供の頃の故郷を思い出しました。
シングルマザーで家の息子も不登校になるが、保育園に行きたがらなくなってしまって、心が暗くなってサーカスしか行くしかないねとか言われて、サーカスの裏方として就職することになりました。
人生でたった一度の誰も体験できないプレゼントと言うことで、保育園に行かない息子は毎日サーカスを見続けました。
生き返ったような感じで、或る意味では教育的効果は凄く大きかったと思います。
その後実家に戻り、介護の生活に入る。
母が64歳で倒れてしまいました。
18年ぶりに母から一緒に住まないかと言われました。
自立して自分で生き切るんだと行って出て行って、今になって自分のしたことが親に取っては大変だったと思います。
父親が会社を休んだことないのに一週間休んだりしたが、当時私は悪いこととは思わなかった。
その凄く大きな後悔が、私が介護を20年やり続けた理由でもあるので。

物書きとして自立したのは母が倒れてからなんです。
単行本を書く道に進んだのは介護の為でしたが、それもよかったと思います。
子供を育てて行くのに在宅で仕事ができるし、自分で調整できるので良い方に行ったと思います。
母の介護ができたし、父とも同居できました。
最初は毎日バトルで大変でした。
母親似だと思っていたが、長い間父と暮らしているうちに私の性格は父親似だと思うようになりました。
親子というのはどういう人か判るまで随分長い時間がかかりますね。
息子が15歳の時に不登校になった時に、父は大反対するかと思ったが、その時に笑って、「若い者にとって1,2年はなんぼのものかだと、人生を今我慢したからと言って良いことはない」と言ったんです。

簡単にOK出してくれて、わたしは救われました。
父は「学校なんてなかなかやめられるものではないが、ちゃんと辞めたなんて大したもんだ」と本気で息子を褒めるんです。
息子の不登校が我が家では何一つ問題にならないで済んで凄く父に感謝しています。
そのことに対することがあるから、父の介護は全うしなくてはいけないと思って看ました。
今は私が祖母になって当時の両親のこととかを思い起こします。
無我夢中でやっていて見えてないことが有ったんだなと思います。
子育てが大変だったので、たった一日でもいいから何の心配も無い一日があったらいいと思って、週一回はあなたたちにしてあげると言って孫の面倒を見ましたが、それが結構大変でした。
でも私の志はもう伝わってないかもしれません。

20歳で家出をしてフリーターみたいに色々してきましたが、人形劇の研究生募集で住み込み可と言うことでそこで台本を書いていました。
人形劇は好きでした。
父の介護と並行して人形劇の方にも進みました。
人形劇の昔の研究生の人達が集まってきたりして、ついに自分の家を人形劇場にしてしまいました。
障害を持っている人も参加出来る。
シニアの世界に人形劇を増やせたら楽しいと思います。
両親を看取って、自分も90位になって無理だと思った時に同じ施設に入ろうかとも思ったが、都会から離れて那須に住むことを決めました。
草の根の介護士さんたちが発見してきた声を集めたいと思って取材を6人で始めて掲載していたが、3年目に入って、見聞きしたりした中で日本の介護観を根本的に変えていきたいと思っていて、コミュニティーに取材に行ったら、その場所が衝動的に自分に合うと言う気がしたんです。
北海道の故郷に似ていて、即決めました。
これから団塊の世代が後期高齢者になって行った時代にどうなるか、介護で若者を圧迫することになるが、それはまずいのではないかと思って、お世話してくれるのを待つのではなくて、自らがどんな介護を受けてどんな老後を暮らしてどんなふうにして行くかということを、自分たちが具体的に実践してゆく時代に入っているんじゃないかなあと思います。

自主介護の運動も起こってもおかしくないと思っていたら、現実に似たようなスタイルの考え方の人が施設、コミュニティーを作ったりしているということでその方向性は正しいと思います。
サービス付き高齢者住宅。
食事は朝は自分で作りますが、昼と夜は食堂で食べて一切作りません。
仕事もはかどるし違うところに時間が使えるので、大変有効です。
70代の間に自分の方向を決めた方がいいかなということが自分の中にあります。
でも何が起こるかわからないので、それを最終と決めなくてもいいと思います。
子供が老いた親を経済的に扶養するという発想はかき消えてしまって、自覚していかないと大変なことになると思う。
新しい価値観で生き抜く道を模索していくことがすごく重要だと私は思っています。
衝動的に移り住む事にしたのでまだ整理しきれていなくて、体力気力あるうちにしておかないとまずいと思った、早すぎるのではと言われたが遅くはなかったと思います。
今は地方も溶け込みやすくなって、新しく作っていこうという気持ちは都会よりも大きいと思っていて、地方の可能性を凄く感じました。