2018年6月4日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】平塚らいてう

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】平塚らいてう
神田蘭(講談師)
講談による紹介
「元始女性は太陽であった」という言葉が有名。
女性解放運動のパイオニア。
1886年(明治19年)2月10日 東京の麹町に3人娘の末娘として生まれる。
本名:平塚 明(ひらつか はる)
父・平塚定二郎は明治政府の高級官吏で恵まれた環境で育つ。
父の意思で当時国粋主義教育のモデル校だった東京女子高等師範学校附属高等女学校(現:お茶の水女子大学附属高等学校)に入学させられ、「苦痛」の5年間を過ごす。
1903年(明治36年)に「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に憧れて日本女子大学校家政学部に入学。
翌年に日露戦争が勃発すると、徐々に国家主義的教育の度合いが強くなり、平塚明(ひらつかはる)失望する。
哲学、宗教を学び始めて、禅の修行をも始めて悟りを開いた証明として慧薫(えくん)禅子という道号を授かっている。
1906年(明治39年)に日本女子大学校を卒業、女子英学塾(現在の津田塾大学)で漢文や英語を学び、文学にも目覚める。

処女小説「愛の末日」を書き上げ、それを読んだ森田草平が才能を高く評価する手紙を明に送ったことがきっかけで、二人は恋仲になった。
塩原から日光に抜ける尾頭峠付近の山中で心中未遂事件をしてしまう。
先生と生徒との恋と言うだけでなく、森田草平は東京帝国大学卒業で夏目漱石の弟子で、妻子持ち、平塚明(ひらつかはる)は明治政府の高級官吏の娘で才色兼備、大スキャンダルに発展し、新聞雑誌が掻き立てる。
明治期では妻子ある男との心中は汚れた女、ふしだらな女となってしまう。
このことがきっかけとなり平塚明(ひらつかはる)は女性差別を痛感し、女性解放の運動を起こしてゆく。
日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を製作する。(創刊号は、1911年(明治44年)9月に創刊)
冒頭には「元始女性は太陽であった。神聖な人であった。今女性は月である。
他によって生き、他の光によって輝く。病人のような青白い顔の月である」と書かれている。(「平塚らいてう」のペンネームが生まれる。)
「雷鳥」から来ている、どんな困難をも乗り越えて羽ばたきたい、強くありたいと言う彼女の思いが込められているのかもしれない。

平塚明(ひらつかはる)は様々な勉強をしている。
森田草平は夏目漱石の弟子だが、一番夏目漱石先生に迷惑を掛けた人だったらしい。
平塚明(ひらつかはる)はその時に22歳、心中事件の時には森田草平は頼りないということで、愛想を尽かしたということで、恋に恋していたというような状況かもしれない。
死生観が人とは違うところに行っていたのではないか。
二人はそれぞれの道を進む。
女性だと言うことで色んなしがらみがある、しがらみをぶちやぶろうと思った。
青鞜社を立ち上げた資金は母からの援助で「いつか来るであろう娘明の結婚資金」を切り崩したもの、と言われる。
父親は平塚明(ひらつかはる)にヨーロッパ的な教育をしていたが、女に学問は必要ないというふうになっていったと言われるが、政府のあり方に従わないと官僚としての立場があったのかもしれない。(心の中では女性も学問は必要だと思っていたのかもしれない)

『青鞜』の表紙は長沼智恵が描き、与謝野晶子が「山の動く日来る」の一節で有名な「そぞろごと」という詩を寄せた。
『青鞜』は「ブルー ストッキング」を訳したもので生田長江が名前を付けてくれた。
生田長江は東京帝大出の新任教師で女性に文学を教えていて開明的な人だった。
女性の解放と言うことをやるとどうしても、共産主義との距離が近くなる可能性が出てくる。
共産主義者との交わりも出てくる。
1913年2月号の付録に福田英子が「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」と書き、「安寧秩序を害すもの」として発禁に処せられる(発刊から2年位)
らいてうは父の怒りを買い、家を出て独立する準備を始める。
1912年夏に茅ヶ崎で5歳年下の画家志望の青年奥村博史と出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動ののちに事実婚(夫婦別姓)を始めている。

若い「つばめ」の由来
「相手の女性よりも年下の恋人」をつばめと呼ぶのは、奥村がらいてうと別れることを決意した際の手紙の一節、「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」
を、らいてうが『青鞜』上で発表し、一種の流行語になったことに由来する、と言われている。
伊藤野枝に『青鞜』の編集権を譲って、その1年後には、伊藤野枝と交際を始めた大杉栄が、以前より大杉と交際していた神近市子に刺される「日蔭茶屋事件」があり、『青鞜』は休刊することになった。
平塚らいてうは高い所にいて、群れを作らない存在であった。
1919年(大正8年)11月24日に新婦人協会が出来るが、「婦人参政権運動」と「母性の保護」を柱にして女性の政治的、社会的自由を確立させようと、日本初の婦人運動団体として設けられた。(市川房枝奥むめおらの協力)
1921年(大正10年)に過労に加え、房枝との対立もあり協会運営から退く。
平塚らいてうは一匹狼的な存在ではあると思う。
1923年(大正12年)らいてうは文筆生活に入る。(論理的な指導者的な人)

第二次世界大戦後は婦人運動と共に反戦・平和運動を推進した。
1953年(昭和28年)4月には日本婦人団体連合会を結成し初代会長に就任。
1971年(昭和46年)5月24日に85歳で逝去した。
「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言する孤高の行動家として、らいてうは終生婦人運動および反戦・平和運動に献身した