2018年6月26日火曜日

中村元(水族館プロデューサー)      ・弱点を武器に

中村元(水族館プロデューサー)      ・弱点を武器に
62歳、大学卒業後三重県内の水族館に入社した中村さんはアシカのトレーナーとしてスタートした後、ラッコ、ジュゴンなど当時は無名だった動物を前面に押し出し、当時ブームの立役者として活躍しました。
2001年水族館を退社した後、日本初の水族館プロデューサーとして全国各地の水族館のリニューアルなどを担当します。
それぞれの水族館の弱点を進化の武器に変える手法でリニューアルを成功させてきました。
水族館の仕事と合わせ中村さんが力を入れているのが、バリアーフリーの観光地作りです。
障害がある人、高齢者が安心して旅ができる観光地作りを進め、訪れる人を増やすのが目標です。

ビルのてっぺんに水族館を作ろうとすると、水の重さが大変です。
そうすると大きな水槽が作れなくなる。
厳しかったのは屋上を使うことでした。(建築基準法上使いにくい場所)
この弱点をどうやってクリアーしようかと思ったのが、ペンギンの水槽でした。
空をバックにしたら少ない水で広く見える。
ペンギンを飛ばせて見せようという大それたことではなくて、空をバックにいかに広く見せようかと思いました。
生き生きした姿は水中から見上げると見られ、目を合わすこともできる、そういった感動を見せたいと思いました。

大学卒業後三重県内の水族館に入社。
特に水族館、動物が好きという訳ではなった。
動物の事を知っておかないと経営、営業ができる訳ではないので3年間やらせてほしいと頼み込みました。
魚の種類など全く知らなかったが、1万種以上載っている本を買わされて全部覚えろと言われました。
アシカとペンギンに興味を持ちましてアシカを担当することに決めました。
ショーに出せないアシカを言う事を聞くようにして欲しいと言われて、接すると性格の違いを感じて、性格に合わせて何かをしてあげると色んな事が出来るようになって来るんです。
決まったやり方では駄目なアシカたちでした。
そのアシカ達を使って1年後にデビューしたんです。
今までのショーとは全く違ったショーでした。
お客さんが笑って楽しむショーにしました。
輪を投げるのをわざと一回失敗させて、そうするとアシカが台から降りてきて咥えて自分の首に通す、アシカが主人公になり拍手喝さいとなる。
水族館は動物の凄さを見せるものだと思っています。

3年後営業に移りましたが、従来のやり方ではお客さんは増えないだろうと感じました。
大学時代は映画を作ったりしていたので、スナメリ(ネズミイルカ科)の出産をビデオで撮りました。
へその緒がぷつんと切れるところまで映りました。
NHKのTVの知り合いに電話したら興奮して是非送って欲しいとのことで送ったら、世界で初めての映像と言うことで次の日からTVで全国放送になってどんどん放映されました。
次の週の土、日からお客さんが一杯来ました。
団体旅行に頼っていてはだめだと言うことも判りました。
個人を対象にするにはメディアを利用することだと思って、広報担当が必要だと思いました。
タツノオトシゴは魚だとは一般には判らない、卵ではなく同じ形の赤ちゃんがオスのお腹から出てくる、物凄く面白いと思った。
TVを呼びましょうと言ったが、周りはそれほど面白い話ではないと言っていました。
二人での広報を作ってラッコ、ジュゴンなど面白いことを撮って、お客さんが沢山来てくれました。

副館長になり、経営のやり方などの違いもあって辞めることにしました。
或る出資者からの水族館のリニューアルの話がありそのお手伝いをしました。
それがきっかけとなり水族館プロデューサーになりました。
最後までかかわったのが7館有ります。
条件が悪ければ悪いほど燃えてしまいます。
北海道の北見市の「北の大地の水族館」は弱点だらけでした。
大雪山のふもとで人が住んでいない、北見市の市街地から1時間かかってしまう。
お金も掛けられないということで2億5000万円とのことで、建て直しだけで3億円でも厳しく、淡水魚しか飼えないということだった。
北海道の魚か熱帯淡水魚(ペットショップで売っている魚)しかいない。
日本一の貧乏水族館だけれど世界初を持っているという事を使おうとずーっと言いつづけました。
水塊を見せようと、湖に潜って美しいと思われる光景を作ろうと考えました。
オショロコマ(イワナの仲間)を見せるために滝壺の水槽(滝壺を見上げる水槽)を考えました。
白い泡が凄い勢いで流れ、そこにオショロコマの群れが集まってくるそういうふうにしました。
安くするために外に穴を掘って窓を付けて水槽にしました、流れる川にしました。
冬は寒いので川が凍るので氷の下を見せる世界初の水槽です、というのを作りました。
いまでも大人気で真冬でもお客さんが来てくれます。
年間2万人のお客さんだったのが、年間30万人来るようになり、7年目になっているが10万人は来ています。

三重県にいたころに伊勢志摩の観光客を増やすように知事から言われて、バリアーフリーを考えました。(お客さんの層を増やす事、障害者、高齢者を受け入れる)
お客さんは感動するところに行きたい、そこが大事だと思う。
バリアーフリーの情報よりもバリアーの状況が知りたい(段差のレベルなど)との事。
観光地はコミュニティーのマーケット、一人でも行きたくないと言う人がいれば行けない。
コミュニティーのマーケットは体の不自由な人が基準になる。
完璧なバリアーフリーしなくてもいいと思っている。
最初は伊勢志摩の観光客を増やすということで始めたが、今は関係ないがボランティアで続けています。
ニッチ産業でニッチなことばっかりやっていて成功して、ニッチをメジャーにして行くトリックを使って上手くできたのかと思います。
次の世代の育成に頑張っていきたいと思います。