2016年12月12日月曜日

田畑精一(絵本作家)      ・戦争ってなんなんだ

田畑精一(絵本作家)      ・戦争ってなんなんだ
田畑さん85歳、終戦の時14歳でした。
日本は聖戦に勝つと信じていた軍国少年でした。、
終戦を前に父親が亡くなり、戦後は貧しい暮らしに苦しみ、戦争を恨んだと言います。
しかし、或る日田畑さんは戦争で死んだのは父だけではなく、世界中で数千万人もの人が死に 、自分と同じ苦しみが世界中を覆ったことになる、そう思った時、戦争っていったいなんだったんだろうと改めて思ったそうです。

私は当然の様に命を捨てるんだと、天皇陛下の為に命を捨てるんだと思って育ちました。
小学校3年生の時にはごくごく当たり前の様に死ぬんだと思って成長しました。
それが自然の空気で、子供が読む本にもそのように書かれていましたし、ラジオ、新聞も、世の中の空気が全部そちらの方にいっていました。
大きな流れの中に乗っていて、時代がそういう方向に動いたと言う事です。
終戦になり、戦争が終わったなんて許せなかった。
1年後に刀を持って乗り込もうと言う事で、友だちと約束をしたが、1年後には来てくれなかったが、来ていたら今頃命はなかったかもしれない。
昭和20年1月には父が亡くなりました。
芦屋高校は出たが、授業料滞納で卒業証書はもらえなかった。(4年後に支払いましたが)
京都大学は卒業見込みで入りましたが、途中で辞めました。
理学部に入ったのは、アメリカが原子爆弾を投下したのに、悔しく思って、原子爆弾を作ろうと思って理学部に行ったが、その後、物事の本質に興味がわいて原子物理を学び、そのさきに子供を考えたのは、人間の核になる土台になるのは子供だろうと思いました。

大学は中途でやめました。
或る日自分と同じような子供は世界に沢山いるなあとふっと思いました。(高校2年の頃)
戦争で亡くなった人は日本は三百何十万人、中国は2000万人越えていると言っているが、ヨーロッパは数千万人いると言われて、子供も母親も沢山いたはずで、それで苦しがっている人は数え切れないほどいたはずで、戦争って何だったんだろうと思いだした、戦争は殺し合う事だと思う。
国家が人殺しを公認して、死ねば英雄になる人殺し。
殺人は死刑になるが、国家がやらせれば英雄になり、戦争っていったい何なんだろうと、そこから考えました。
昭和25年朝鮮戦争がはじまり、全国の大学はみんな反対闘争が過熱しました。
色々考えた末に、人形劇を見た時に、非常におもしろかったが、レッドパージで、学校では上演ならんと言う事だった。
その劇団で人形劇をやりたかったが出来なくて、別の「劇団人形座」に入りました。
中心の活動は子供むけだったです。

13年ほど人形座にいましたが、酷い貧乏でした。
大人はあの戦争をやったし、反対も出来なかったし、大人に託そうという事は駄目だと思いました。
劇団が潰れて、精神的にひどく荒れていたが、古田足日さんが私の住んでいるアパートにひっこしてきて、新進気鋭の評論家でした。
或る時忘年会に誘われて、飲んだ勢いで死ぬまでに子供の本を一冊でいいから書きたいと言った。
3年後に、こんなものを書いたんだけれど、絵を描かないかと原稿用紙を差し出しました。
「食いしん坊のロボット」という題名でした。(幼年童話 小学校2~3年)
古田足日さんの素晴らしいところは、困難に立ち向かう時に、大人の指導とか事ではなくて、子供自身が考えて、自分達の頭で考えて、自分達の行動でそれをどうしたら越えられるかと言う事を、子供と一緒になって考えたことが古田足日さんの素晴らしいことです。

古田足日さんは加害と言う事を良く考えていました。
東京大空襲とか被害のことはよく語られるけれども、あれを起こしたのは我々の先輩であって我々もそれに賛成したのだから、加害者である、だからその責任とそれをどう断ち切って先にいけるのかと言う事を、子供の目で見ると言う事の手助けをやりたいと言う事だったと思います。
児童文学は実際どういう働きをしたかという事は判らないが。
読む事によって子供が自然に考えるという風にしてほしいとは思っているが、そう簡単にはいかない。
書いたからと言って、それが全部伝わる訳ではないので。
子供の幸せのことを考えた時に、一番反対のものは戦争です。
しかしあれは国が進めたわけで、あれはその時は異常ではなかった。
その正反対の事をやりたかった。
「さくら」 遺言の本
平和の絵本を作ろうと、日本の絵かきがやりました、田島征三和歌山 静子、浜田桂子、それれに私が加わって出したいと言うことで、韓国の絵かき4人と会って、中国の4人、12人の絵かきが集まって、一冊の本にするという事だったが、一人一冊だそうよ韓国の人が言って、12冊の本を一緒に出すことになりました。

私が生まれた時には桜が満開で母親に抱かれて幸せだったが、同じ年に日本が中国に攻め込む戦争が始まって、韓国を植民地にしていたが、そんなことは子供は知らなくてどんどん大きくなって、小学校の国語の本は「さいたさいたさくらがさいた」で始まって、次のページには「進め進め兵隊進め」となっていた。
日本は満州国を作って、正義の戦だと言う声が国中にあふれて、戦争が激しくなって、桜は咲くが花見はだれもしなくなり、桜の花は軍歌になり、色んな歌に歌われ「咲け咲け、散れ散れ、死ね死ね」と歌われるようになる。
日本陸軍の歌
「万朶(ばんだ)の桜か襟の色 花は隅田に嵐吹く 大和男子(やまとおのこ)と生まれなば 散兵綫(さんぺいせん)の花と散れ」と歌われる。
海軍兵学校の歌
「貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の 庭に咲く 咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため」と歌われる。
桜の花はお国のために常に死ね、と言う歌になっていたが、本当はそうではないと「さくら」の本では言っている。

戦争は決して美しいものでも、命を捧げるものでもなくて、もっとひどい人間の殺し合いだと悟って、それから何十年か経って、絵描きになっていて、公園を歩いていると一本の老木が話しかけてくる。
自分には辛い思い出がある、桜の花の様に散れ散れと言って若い人たちを殺してしまった、戦争だけはいかんと言って花びらを降らす、と言う様な内容です。
反対する人を牢屋に入れたり、殺したりして、戦争反対を言えば牢屋にぶち込まれる、殺されると言う事で誰も反対できない所に私達は育っていったので、学校の先生もそうだった。
あれはいまだに許しがたいと思っていて、これからはアメリカだと言って、これから民主主義と言って、軍人勅語を覚えろと竹の鞭をふるっていた先生が、或る日「若き日のマルクスが・・・」と言いだして、戦争なんて賛成なんかしていなかったと言うような顔をしだして、かなり人間不信でした。
生きていることは素晴らしいよ、人の殺し合いなんて止めようと、粘り強くコツコツとやるよりしょうがないと思ってます。