2016年12月30日金曜日

三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・大正・昭和から平成へ  (H16/4/8放送)

三笠宮・小林(古代オリエント史学者)・大正・昭和から平成へ  (H16/4/8放送)
三笠宮殿下米寿記念論集 700ページ以上の論集が秋になると刊行されます。
誕生の前年1914年が第一次世界大戦が勃発、昭和天皇と14歳 秩父宮様13歳、高松宮様と10歳違う。
昭和天皇が摂政になったのが、大正10年頃、私は小学校にいく前で、摂政を置かれたということは健康がすぐれないと言う事ですから、記憶に残っているころは、摂政を置かれた時代なので大正天皇についていろいろ申し上げる資格はないです。
貞明皇后については当時としては一般の家庭とは違っていたので、親子で有りながら親子でない様な面が有りましたが、立派な方だったと思います。
皇后になると言うことは大変なことだったと思います、生まれる前のことなので噂に過ぎないが一時期精神的にも悩まれて、チブスにかかって静養されて、その間に精神的に持ち直したと言う事もあった様です。
今後もそういう問題は起こると思います。
小林:女帝問題が巷で出ていますが、、昭和21年11月3日の新憲法公布記念日の日付けで、三笠宮と書いた手書きの文書が残っていて、新憲法と皇室典範改正法案要綱案を枢密院に提出されたと、これは宮様が本当にお書きになったものですか?
当時、皇族は枢密院議員の資格が有り、会議に出ていましたが、発言したことを記録に残したと言う事です。
小林:女帝の問題も再検討されてしかるべきと発言になったが、枢密院でも黙殺されたと、こういう経過でしょうか?

昔は古い女官の方がお姑さんの様な役割をしたので貞明皇后も非常に悩んだと思うのですが、今はマスコミがいろいろ騒ぎすぎますね。
将来そういう立場になる人も怖気付くだろうし、日本の場合配偶者、女帝自体も大変だし、一般の人が配偶者になることは大変で、戦後華族制度が無くなって華族制度を無くすことは、今になって考えてみると天皇制の外掘りを埋められた様で、女帝になっても配偶者になる方がいないのではないかと思います。
理屈では女帝有ってしかるべきですが、現実問題問としては、はたしてどうなるのか。

小林:小さい頃は童謡の宮様といわれたそうですが?
「月夜の空を雁飛びて、宮君御殿でそれ見てる、宮君が御所から急ぎて帰る時、町に電灯つきにけるかな」 こういう童謡が歌われていたのか?
日光に夏は避暑に行く事になっていて、七夕の時期、たまたまその時期大正デモクラシーで皇室の内部状況を一般に見せる必要があると言う事で、大阪毎日の小野 賢一郎の一行が、活動写真を撮ると言う事で小野さんがたまたま短冊を発見してスクープして、本居長世さんという有名な作曲家に依り作られて、全国ツアーもやってました。
(本居長世の3女若葉さんが宮様の誕生会で歌われました。)
小さいころは、陸軍少将とか、御歌どころの東さん、橘さんとかお年よりの方が周りにおりました。
浪曲のレコードはいっぱいあって、洋楽のレコードはなくて家内も結婚した時に驚いていましたが。

夏休みの宿題で、関ヶ原の役を取り上げましたが、実際に歴史に関心を持ったのは陸軍大学の学生の時で、戦術(理論)、戦史は生きた人間を扱うので、戦術では出てこない物事が出てきて、人情の奥まで研究、人間的にも深い様なものを感じて、教官のもとでの実戦でも上手くいかないと言う事も実感して、戦史が大事だと感じました。
昭和天皇も歴史が好きだったが、どうしても歴史をやると政治的になるので、天皇は政治的になるといけないと言う事で歴史の研究はよくないと言われた様で生物のほうに行った様です。
関東大震災の時には日光にいて、庭に飛び出しました。
栗橋の鉄橋も壊れたし、電話線も切れました。
たまたま両陛下が来ていて、警戒のために近衛兵が来ていて、伝書鳩を持っていて伝書鳩でかろうじて東京と連絡が取れました。

関東大震災を歴史的に見直します時に忘れてはならないものが有ると思います。
死者が関東地方で約10万人、行方不明者が約4万人、東京だけで死者が6万人を越えて、その内の5万数千人は火事で焼け死んだといわれます。
地震と火事に依るパニック状態の中で、多くの在日朝鮮人が虐殺されたと言う事で有ります。
9月1日の夕方には不貞戦人が襲ってきて井戸へ毒を入れた、放火強盗、暴行を欲しいままにしていると言う様なうわさが飛び交い、社会主義者も加わってるという流言が飛び交って、その結果殺害された朝鮮人は政府発表では200人あまりと言われたが、実際はその10倍以上に及んだのではないかと推定されます。
現在の日本と隣国の民族間の感情問題にも関係してくるので、歴史的に見直すということが必要ではないかと考えています。

昭和7年陸軍士官学校の予科に入学。
明治43年に公布された皇族身位令、親王、王は満18歳に達したら、陸軍又は海軍の武官に任ず、という事で軍人への道に向かう。
秩父宮が海軍、高松宮が陸軍を希望したらしいが、当時陸軍と海軍が勢力争いをしていて陸軍が強くて、最初の皇族は陸軍でなくてはいけないと言う事で押し切ったらしくて、秩父宮が陸軍、高松宮が海軍と言う事になり希望とは反対の方に行ってしまった。
高松宮は船にとても弱いので大変苦労したと思います。
私は小学校のころから乗馬をしていたので陸軍に行く事になりました。
昭和18年支那派遣軍参謀という事で1年間中国に行っていました。
南京に1年間いて、南京を経つ前に将校たちに話をすることになり、南京に行く前に日本の政府で対華新方針が出されて、従来の日本軍のやり方が悪いことが多かった、当時の北支方面軍司令官岡村大将は4悪といわれ、民衆にたいする軍規が良くなかった。

それが反日思想を誇張させる、日本軍のやり方を改めなくてはいけないと言う事で日本政府が新しい方針を出しました。
その直後に赴任した訳で、大変幸せでありました。
各方面に行って、新しい方針を伝えて、中国人にたいする軍規を厳守しなくてはいけないと言う事を申し上げたわけですが、エピソードですが第一線の指揮官が従来は敵に攻めてゆくと家を焼いていた、後ろから見ているとどこまで進んでいたか判ったが、自分の部下が判らないという様な話をしていました。
日本軍が、蒋介石軍が制作した「勝利行進曲」という映画を獲得してそれをみて、重慶政府の宣伝映画でしたが、実際良く見ると実際の事を映画にしているのではないかと思いました、東京に戻る機会の時に昭和天皇にお見せしました。
軍規が良くはなったが手遅れで、数年前に新方針を出していれば、もうすこし効果があったとは思いますが。

小林:昭和46年秋 昭和天皇がヨーロパ御訪問の際に、外国人記者団に自分は立憲君主を念願として来たけれども2回だけ、非常に切迫した緊急事情のため直接的な行動を取った、その一つが2・21事件、もう一つが終戦の時であった、とお話しになったと言う事ですが。
昭和天皇は立憲君主を念願にしていらしった様ですが、2つの件についてどうでしたか?
明治維新以来、陸軍がフランス、海軍がイギリスの制度を取り入れて、フランスがプロシャに負けて陸軍がフランスの制度からプロシャ(ドイツ)の制度に切り替わってドイツ的な教育になって、第二次世界大戦のときにも災いをなしたのではないかと思いますが。
憲法もプロシャの憲法が草案になって伊藤博文も随分手を入れた様ですが、ドイツ的な専制君主と言っていいかどうか判りませんが。
西園寺侯爵が元老として天皇にアドバイスすると言う様になってから、イギリスの君臨すれども統治せずと言う様なイギリス式の君主の在り方をアドバイスしたのではないかと思います。
基本的にはドイツ的な憲法を実際的にはイギリス的に実行するというジレンマが有ったのではないかと思いますが。

小林:日露戦争についてはどう思われますか?
勝った勝ったと言う話が多いわけですが、戦史の講義を聞いた時に武力的には決して日本軍はロシア軍に対して強力では無かったと言う事を聞きまして驚いた訳ですが、最初の戦は鴨緑江のあたりで起きて、ロシア軍を撃退したということになっていて、ロシア軍を追い詰めて奉天の線まで行ったという事になっていますが、後から調べるとロシア軍が奉天の線まで下がったのは、ロシア軍の司令官が軍隊にたいして、日本軍の前進をすこしずつはばみながら奉天の線まで退却をするようにとの命令を出していたそうで、日本軍は撃退しながら奉天の線まで行って武力的に勝ったのではない。
日本では封建時代からお城があってこれを最後の一兵まで守ると言う武士道精神という様な気持ちが、日露戦争まで体に流れていたのではないかと、武力で敵を撃滅したということは少ないが、城を、街を死守すると言う事では力を発揮したと言う事を戦史で習いました。
最後はアメリカなどの仲裁で平和条約になったわけですが、ロシアが調印したのは政治的な国内問題でもってロシアは戦を止めたんだと、日本は勝った勝ったと提灯行列をしましたが、それ以来日本は強い、神風が吹くと言う様なことが一般の国民だけでなくて軍隊まで浸透していって、第二次世界大戦の時も神風が吹くと言う様な気分がみなぎっていたのではないかと思う。
日清、日露の戦争で日本は強いんだという様な誤った先入観で第二次世界大戦まで入ったんじゃないかと思います。
海軍は第一年度は勝つと、二年度は五分五分、三年目は判らないと言う風に判断していたが陸軍も科学的な判断を下していれば違ったかもしれないが、歴史の研究が十分でなかった結果ではないかと思います。歴史の研究は大事と思います。
玉音放送は市ヶ谷で聞きました。
日本の飛行機はなくなって、航空に関係していれば負け戦はわかっていたので来るべきものが来たという感じです。
特攻には反対でしたが、特攻で敵の上陸に対して囮の敵鑑を撃沈したとしても飛行機は無くなり、敵鑑が上陸すればそれに対する手はないので、上の方では判っていたので来るべきものが来たという感じです。

ソ連の崩壊、湾岸戦争、イラク戦争等、もう少し指導者が歴史を考えてほしいですね。
今の中近東のいろいろなごたごたも第一次世界大戦の時に、ヨーロッパの各国の軍隊が中近東に入って来て、いろいろなことが有って、その時の軍隊の境が今の新しい民族国家の国の境になっている所もあり、国の境が直線になっているところもあり、問題があると思います。
軍隊の引きあげ方、後始末もしっかりしないで引き挙げていった場所もあり、尾を引いて色んな紛争をになっている。
欧米諸国が第一次世界大戦以来のやってきたことをもう一遍反省し直して、中近東の民族の歴史、部族の歴史を研究し直すことが、今後の歴史を変えてゆくのではないかと思います。