2013年11月4日月曜日

堀内永人(歴史作家)      ・77歳からの作家人生

堀内永人(歴史作家)      77歳からの作家人生
1930年昭和5年 静岡県掛川市 83歳  77歳から物書きの道に入り、今年7作目の小説、
江川太郎左衛門の生涯」を書きあげました。
元銀行員だった堀内さんは53歳で銀行を退き、企業経営にかかわりますが、お金を貸す側から借りる側に回り、資金繰りに大変苦労して、辛い体験をしたと云います。
大学卒後、50年後、73歳の時に、日本大学大学院に設けられた、国際関係研究科博士前期課程に入学して、毎朝3時に起床、会社務めと、大学院通学をやり遂げました。
77歳から郷土の先人や、偉人たちの伝記小説を書き始めました。
主人公は静岡県の駿河や伊豆周辺で活躍してきた人達です。
この地方には江川太郎左衛門や、二宮尊徳ゆかりの歴史が残っています。
特に伊豆韮山代官を代々受け継いだ、江川家には江戸末期の渡辺崋山高野長英谷文晁などに関する古文書が残されています。
今年 6月文化庁から、国の重要文化財に指定されています。

最初何冊書けるのかと不安だった。 「江川太郎左衛門の生涯」 厚さ3cm。
父親もがっちりした体格 、当人もよく似た体格 自画像を鏡を使って書いたといわれる。
おじいさんは非常に有名で絵も描くし、書も書くし、剣術も立つと、文武両道に秀でた方
およそ200年前、江川太郎左衛門 名を英龍 1801年韮山代官の第2子として生れた。
江川太郎左衛門が財政破たんをした伊豆の優良な商人の財政立て直しに、二宮尊徳を三顧の礼をして、財政を立て直した事が第一作目。
何故江川太郎左衛門が多田弥次右衛門という名主を助けたかと言うと、江川太郎左衛門の先祖がお金で大変苦労した時代があり、その時に多田家が助けたという事があり、恩返しの意味を持って江川太郎左衛門は多田弥次右衛門の苦しいところを救った。
二宮尊徳をお招きして尊徳の力を借りたという事です。

同時に多田弥次右衛門の財政的破綻を救っただけでなく、江川太郎左衛門自身が二宮尊徳から数々の教えを受けて、その報徳の教えに基ずいて、江川大明神と敬われるような立派な代官」になったという経緯がある。
二宮尊徳 真面目で日本人の典型 報徳の教え 誠を尽くし勤労し働き、分相応の生活をして残ったお金の一部を社会の為に、使ように心がければ世の中平和で豊かになる。
①至誠  ②勤労 ③分度(自分のお金の収入と支出の分をわきまえる)  ④推譲
善い行いをすればするほど経済が豊かになり、経済が豊かになれば善い行いもすると皆さんに説明している。→報徳思想

江川太郎左衛門は幕府の代官なので、自分の支配地の外に出る事は当時としてはできなかった。
二宮尊徳は小田原藩の住人なので自分から出向くことができないので、三顧の礼を尽くしてお迎えして、結果は非常に良い方向に向かった。
財政再建で活躍した事をテーマに 「韮山に咲く報徳の花」 第一作を書きあげる。
読みやすいように小説に仕立てた。
曾祖父が美人ヶ谷に移り住んで生活をする。  内科医だった。

地元の銀行マンになり、53歳で銀行を退職、会社経営するが苦労する。
バブル前で資金的に苦しかった。 援助を受けるが、思い出すたびに胸が痛くなる。
自分が資金繰りをせねばならず、銀行はなかなか貸してくれないので苦労した。
どうして資金が苦労するんだろうと考えてるときに、報徳思想と言うものに出会って、学べば学ぶほど、なるほどこの教えをしっかりやっていれば、乗り越えられたんだと、深く学ぶようになりました。
経営に反映する。  報徳の神髄を学びなさいと今も言っている。
分度をきちっと掴んでいれば、自分のお金を使わないで、社会に貢献しなさいと、あるいは将来のために蓄財をしなさいと絶えず口にして言っている。
そうしていれば衰える事は絶対ない。
自分の収入を考えている利己主義の店(B)と報徳の精神で行う店(A)ではAの店にいくのは人情ではないかと思う。  
人にはお金では測れないところがある。(気分、気持ち)
利己主義のかたの店より、社会にいろいろと尽くされる方の店に行くと確信をしています。
信用、道徳と言うものがあればおのずと信用はついてくる。 
信用があれば人を裏切らない。
時代の推移には関係ない。 万国普遍だと思う。

歴史小説でないものも書こうと思って、少しは手を染めたが、書くと云う事は紙になって残るので、立派な人が現在うずもれている方が沢山いらっしゃる。
その人たちの思想も立派な思想がある。 其れをこのままで世にうずもれたままでいると云う事は社会の損失であると思って、すこしでもそういう方の志、思想、行いを世に広げたいと思って歴史小説に取り掛かった。
資料を集めれば、集めるほど、その想いは強くなった。

江川太郎左衛門は幕府の一地方代官、日本の国をゆるがすような黒船到来の時に国防、海防を叫んで、軍備は外国から武器を購入するだけではだめだと、もっと近代的な事、幕府もやらない、それなら自分がやろうと、作ったのが韮山の反射炉ですね。
天然痘から領地の民を救うために、種痘を二人の自分の子供に植えつけて、種痘の効果があると云う事を実証して、領民たちも安心して種痘を受けて、天然痘は起こらなかった。
迷信がはびこっていたので、皆が受けないので、自分の子を試験台にして、安心を与えた。
反射炉は世界産業遺産の候補にもなる。
日本でも初めての西洋式帆船建造もこの地で行われた。
日本で初めてパン焼き機を作ったり、江戸湾のお台場を海防のために作った。
幕府の命令でやったのかと思っていたが、調べると違っていた。
砲台を作ろうと幕府に申請するが、許可が出なかった。

研究すればするほど、江川太郎左衛門は立派な凄い人だなあと思っています。
55歳で亡くなったが、もっと長生きをすれば、幕閣の中枢を担ったのではないかと思う。
読者をどこに置くかという事で、小学校の上級生、中学生に読んでもらおうと、平易に書いた方がいいと思って書いた。(振り仮名を付ける)
挿絵も地元の方々の協力(地元の高校生の美術部の人とか)の元に作成した。
取材は資料を読み、現地を見て、目と足で書いたと自負している。
パソコンに書き込んだ。 修正が容易なのでパソコンを使った。
紙に出力して、読みやすくするためには、音読をして、文章がよろしくないときには、音読が途中で止まってしまうので、音読をして修正をする。

本の最終頁に記載されたもの。
「著作活動に於いて、最高の理解者であり、最高の応援者は妻の智子であった。
残念なことに妻智子は静岡県立癌センターに於いて平成25年5月17日 2年6カ月の闘病のすえ、不帰の人となった。  筆者最大の痛恨事である。 本書を妻智子の霊前にささげる。
妻に読んでもらって、妻からはいろいろアドバイスを受けた。
執筆活動は、9時頃就寝して、朝の3時に起きてパソコン入力している。
大学院に行っていた時代は、仕事を並行して、執筆活動をしていた。
「早起きは三文の得」
生涯自己啓発を常に頭に於いているので、死ぬまで勉強だと云う事でいつでも頭の中に作品を描いて、次はどう展開するんだと言う事で、忘れないようにメモをしたりしている。
8作、9作、10作(資料がまだ集まっていないが)まで書きたいと思っている。

二宮尊徳の銅像  アメリカの教科書に牛を引きながら勉強する子が描かれていて、二宮尊徳の子供のころ、牛の代わりに薪を背負って本を読んでいる姿として、明治新政府が其れを借用した。
幸田露伴が二宮尊徳という小説をかいたが、口絵に絵描きが資料を集めていた時に、アメリカの教科書を日本が借用して、明治政府は日本の小学校の教科書にした。
牛を薪に変えたらどうだろうと云う事で、原型になったといわれる。