竹内昌彦(社会福祉法人岡山県視覚障害者理事) 見えないからこそ見えてきたこと
昭和22年 当時乳幼児だった竹内さんは、中国からの引き上げ船内で肺炎にかかり、九死に一生を得ましたが、命と引き換えに右目は視力を失い、僅かに見える左目だけでの、生活を余儀なくされました
小学校二年生で網膜剥離の手術をしますが、退院後盲学校に転校し、5年生の時に完全に目が見えなくなりました
建築設計士になりたかった夢が消え、新たな道に踏み出します
子供の順応能力は凄い ぱっと見えなくなったというよりは、段々見えなくなってきたので、それほどにショックではなかった(そんなに不便とは思わなかった)
網膜はく離 網膜は神経でできていて、この膜で光を感じて脳に送っている
この膜が離れてしまう 離れてしまうと幕が揺れるので、例えばたっている棒が揺れる、地面が揺れる その症状が出てきたのは小学校の2年生の時だった
その夜のうちに病院に行った
家族が良かった めくらがいると、当時は隠すような傾向にあったが、兄以上にいろいろなところに連れて行ってもらって、なんにでも触れさせてくれた なんでも怖がらずに経験しろと言われた
うまにも像にものったし、ニシキヘビの尻尾も握った事がある
父は警察官だったので、警察官舎に住んでいた 対等に遊んでくれた仲間がいた
弱いものいじめは当時では恥だった 馬鹿にされた
小学校でも素晴らしい先生に出会った 1クラス60人 私を最初から、みんなの前で竹内は目が不自由だと、だから不自由な目を助けるためにはどうしたらいい、まずどこに座ったらいいか、みんなで考えようと、提案した 私を助ける子が出てくると先生が物凄く褒める
先生のやり方一つで、こんなに子供は変わるのかと思った(後で感じる)
絵が好きだったので、地理を教えてくれるのに、海岸線 川、県境線 判別できないので、最初海岸線だけを教えて、次に県境線をいれてゆく そのあとに線路を入れると 何段階にも分けて教えてもらう 県の形が物凄く印象に残った
勉強には普通の人よりも倍の時間をかけなさいと言われた
大学受験でも、参考書を作ることから始まる 粘り強さを持たないと追いつけない
泳ぎもできたし、山ものぼった 運動も卓球をする パラリンピックに参加
どうやって打つ? 小さな鉄の球が入っていて、転がすとガラガラと言うのでその音を頼りに、打つ ネットはあげる ネットの下を転がす ネットに当たるようであれば、浮いているのでアウト
ネットの下を転がすと当てやすいので、転がすことで正しく打った事になる 金賞を取る
建築設計図を書く仕事がしたかった 当時は、あんま、針灸の仕事しかなかった
夏休みに近所のおばさんが、肩が痛いとぼやく(五十肩) 練習台にされる
良く効いたので非常に喜んでくれて、これが発端になった(開き直った)
親を安心させたいとの思いがあったので、筑波大学に行く
あんま、針灸の免許を取ったものが受験しなさいとの方針だった
教育指導だけの2年間勉強するコースだった
エリートが大勢いる 20人 皆それぞれ卓越した能力を持っていた
教員は迷う事が多い 迷ったら、生徒のためを思って行動する 若い教員にもよくいう
生徒は千差万別、 生徒にこの先生のもとで勉強して、得をしたといわれるようにしてきた
点字ブロックを作ったのは岡山が一番最初 昭和42年3月18日に点字ブロックの上の横断歩道を渡って、渡り初めをした日です
三宅精一 目の見える方 目の見えない人に安全に歩けないのかと思って作った
自分のお金で建設省に掛け合って、作ることになる 駅のプラットホームとかに作るようになる
世界に広がった
よその国には視覚障害者による、あんま、針灸はないので、マッサージを教える学校を作りたかった モンゴルで2011年3月9日に開校式をした 帰った日が大地震だった
寄宿舎、食堂も作った 定員10人の予定であったが、30名が集まる
この話を聞いた白鵬が是非会いたいという事で、会う事が出来た
私の長男が重度脳性小児麻痺 言葉も出ない、歩けもしない、7歳で死んでしまった
パラリンピックに行って思ったが、目の障害は軽いなあと 他の障害の人が本当に苦労して生きておられる 目はまだ軽いなあと思った
粘り強く、がまん強く、目の見える人の努力にくらべれば、何倍も時間がかかるが、時間をかければ、追いつく だから粘り強く、戦ってゆく、挑戦してゆく、続けてゆくという事は、障害を克服する一番の方法だと思います
点字ブロックの発祥の地 として石碑を作ろうと思って、一人で始めたら(100万円ぐらいなら出来ると思い 石材業の友人がいたので相談したら、おまえひとりだけにさせるわけにはいかないという事になり)、すぐに賛同者が増えてくれて、20人くらいになり650万円集まり、大きな石碑が3つできた