2013年6月20日木曜日

米沢冨美子(物理学者)     ・人生はいつでもチャレンジ

米沢冨美子(物理学者・慶應義塾大学名誉教授) 人生はいつでもチャレンジ
昭和13年大阪生まれ 理論物理学者で、特に不規則系の研究で世界的に知られている
1996年に女性で初めて日本物理学会の会長になりました
研究と同時に、3人の娘さんの子育て、夫の米沢允晴さんの看取り、お母さんの介護など幾多の経験をなさっていらっしゃいます
苦労と言う言葉が大嫌い 、人生は常に前向きと言う米沢さんに伺います

物理は物のことわりを解き明かす学問    物 森羅万象、宇宙に存在する一切の物
ニュートン力学でいうと、天体はどう動いているとか、日食がいつ起きるのかとか、地上のさまざまな落下運動とか、放物線運動とか、皆さん中学、高校で勉強されたと思います
古典力学、量子力学がある  半導体が20世紀における産業革命を起こしたもの
電子情報技術も元は物理 
生命も元をただせば、一番基本的なものは物理の言葉で解明できる

1938年生まれで小さいころから数学が好きだった 母が数学が好きだったが、時代が許さなかったので、進学が出来なかった
5歳の時に三角形の内角の和は2直角であることを、母から教えてもらって、それが分かって、感動して、それから母から教えてほしいとせがんだ(証明の仕方を教えてもらった  証明の仕方に感動した)
中学の時に出会った数学の先生も、才能を持っていると判って、中学の間に高校の数学を全部教えてもらったり、微分、積分とか随分先まで勉強していた
京都大学に入学、理学部に入る 3年になるときに、湯川秀樹先生の湯川効果で目覚めて物理を選んだ(ノーベル賞をもらった後)

当時理学部 120人の中で4人いた クラス分けした後で50人のクラスで紅一点
男子と話をするような状況にはなかった(向こうからは話しかけてこないし、こっちから話そうとすると逃げてしまう)  情報を得られなかった(来週どんな講義があるかとか、いつ試験があるのかとか、どんな本を読めばいいかとか)
湯川先生に聞けばいいと思って、アポを取ってもらって、会議の間の5分間に会ってもらって、話をした それから助教授を紹介してもらった(情報を得られるようになる)
物理 こんな面白いのは無いと思った  理論では数学の世界 数学をフルに生かせた
大学時代に允晴さんと出会う (経済学部)  エスペラント部で出会う
エスペラント語は政治の世界から離れて、そこに憧れた

つきあってすぐに、結婚の約束をする 最初は、物理は片手間にはできそうにない 
家庭も大変で 結婚は断ろうと思っていたが、物理と僕の奥さんと両方取ることをどうして考えないのだといわれて、目からうろこでした  
人生これか、あれかではなくて、これも、あれもという人生が可能なのだという事が分かって、それ以来、私はあれも、これも全部取って、暮らしてきた
大学院に進む、その時に結婚する
允晴さんは証券マンとなる  
社員を留学生派遣する方針ができて  夫は一番になって、ロンドン大学に1年間留学する
私もイギリスの学長(30校)に手紙を出した  2つの大学から返事が来た
キール大学 授業料免除 食費、寮費免除 多少のおこずかいも貰えるという条件
夫が行ってから3ヵ月後にイギリス、ロンドンに行くことになる

取りえは 行動力だと思う   3人の子供を出産する  
ある年までは大変だが、それを過ぎると子供同士で遊んだりするので、それほどの大変さは無かった(パートタイマーで頼んだりもした)
京都大学の基礎物理研究所(湯川教授)の助手となる  夫も京都に来てくれることになる
研究も時間を決めて、終わりと言う事ではないので、睡眠時間を削った(一日4時間ぐらい)
今でも睡眠不足で仕事をしてるので、何が一番欲しいかと言われれば、ぐっすり眠りたいと答えている

忙しい中(長女が1歳、次女がお腹にいるころ)、不規則系の新理論を発表する
家事も全てやる事にしていた(夫は何もやらなかった)  パートタイマーの利用もしたりもした
允晴さんが強い剣幕で、「君が勉強している姿を最近見なくなった 怠けているんじゃないか」 と言われてそれなら手伝ってくださいと言おうと思ったが、それは彼なりの激励の言葉であって、それを言ってもらわなかったら、多分私は、育児の忙しさ、つらさに負けて、研究はおろそかになったと思う
意地で机にかじりついて、不規則系の新理論にたどり着いた
子供が3人になってからニューヨークに行く事になる(研究のため)
世界的に認められるようになり、世界で勝負したいと思った(夫もニューヨークで仕事を希望)

京都大学5年間助教授 その後慶応義塾大学に教授として迎えられる
子供たちには直接、教えた事があるが 一番力を入れたのは、英語と水泳 
夫が60歳の時に亡くなる  
自分では気がつかなかったが、夫がいなくなったのは大きな影響をを与えた  
大学院時代から年に平均5本の論文を書いていた 唯書けばいいというものではなく、オリジナルでなくてはいけないし、ちゃんとした科学雑誌に投稿して、レフリーがいてそれを通らないといけない、凄くハイピッチで、それを出産したときも、育児の時も、ずーっとコンスタントに続けてきたが、夫が他界した1年は論文は一つも書けなかった(その時は気がつかなかった)
後で整理して判った

別れの時に、最後10時間以上意識が戻らなかったときに、夫にずーっと支えてもらったお礼を言ってなかったことに、気がついて、夫の耳に「マーちゃん ありがとう ずーっとマーちゃんが支えてくれたから、私はやってこられたんだよ」と 言った  聞こえないと思ったが
10時間 ぐらい手をにぎっても反応しなかった人が、目を開けて、寝たまま手を動かして、私を自分の胸に引きよせて、抱き寄せてくれたんです
物凄く、凄い嬉しかったですね  その話をするたびに涙が出てしまう
奇跡が起こったような別れがあったので、その後の1年間は私は何にも考えられなかった
見かねて周りが、授業とかも代わってくれたりした

2年経ってから 200人ぐらいいるある会議の席で、2年前は夫のこともあったしと言うようなことを、ちらっと言ったら、とたんに聴衆の前で涙が出ちゃって、声が涙声になって、聴衆がシーンとして、凍りついちゃったりとかあって、思いだすたびに涙いっぱいになりますね
17年になるが、週に2,3回夢に出てくる  (はっきりした形で出てくる)
私の心の中に夫が生きている
(一人で生きている感じはしなくて、身体は一つだが、二人で生きている  二人の人間が一つの体の中で生きていると言うような感じがする)