2013年6月11日火曜日

平岩弓枝(作家)         ・時代を創った女たち

平岩弓枝(作家)     時代を創った女たち
平岩さんの小説と言えば、「御宿かわせみ」や「はやぶさ新八」の時代ものが有名ですが、「女の味噌汁」、「肝っ玉母さん」、「新平家物語」など、数多くの、TVドラマの原作、脚本を書かれました
昭和7年(1932年)東京、代々木八幡宮の大切な一人娘としてお生まれになりました
昭和34年には第41回直木賞を受賞されています
今も新しい作品と取り組んでいる、平岩さんに伺いました

代々木八幡宮 近くの地域には近親感を持つ
地域の人たちの平和、心の平和を守るのが一つの重要な役割だった
歴史のある八幡宮 草創は鎌倉時代  村の鎮守の神様ですから 本来は 村舎
子供のころ環境は、野っぱらだった  池が多かった そこで金魚飼っていた
沼地なんかが多かった (今では想像もつかない)
昭和20年 一人っ子だったので、両親が私が死んでしまうと、跡取りが無くなってしまうので、福井の叔母のうちに行っていた  
福井の学校に行っていた 学校も焼けてしまった(8月) 疎開の生活はとっても良かった
私のあだ名が「吃驚さん」 すぐに吃驚していたので

草刈りに動員させらりした 鎌を見ただけで震えてしまった
僅かな間だけれども、いろいろかばってもらった  子供心に人の親切を身にしみた
半年で東京に戻る(父が何がなんでもかんでも戻す)
演劇部、それらしいものが無かった  (友人が演劇部を作り出す 高等女学校のころ)
学校が二つになり そこではリーダーが無くなり、私がまとめ役をするようになる
脚本を書く (当時東洋史に興味を持っていたのでその中から書いた)
私は裏方が好きだった  擬音(馬の音、波の音等)が好きだった

小説を書こうと思ったのは、偶然 大学を卒業すると結婚か、行く先が決まっていたが、私の場合は考えてもいなかった
踊り仲間 素晴らしい友人がいた  或る日、どうするのかと言われる
一人娘でお婿さんを迎えるならば、ろくなのが来ないという
一人で何かやってゆくものを、考えた方がいいのではないかとアドバイスしてくれる
踊りの先生は駄目かと言うと駄目と言う あなたは踊りの手順を覚えるのはやいが、でも一曲上がって次におけいこが始まると前の事はすぐに忘れるでしょうと言われる
小学校の一年の時に、作文を書いた  素材が良ければ或る程度いけると思う
かわいがっていた犬が亡くなってしまって、そのことを書いたが、渋谷区の文集に出たらしい
父が大喜びで喜ぶ  父は物を書く人になるのではないかと思ったらしい
その後の作文は良くなかったが、友人に対して書くことは、ちょっと好きと言った

彼女に父は大銀行の頭取だった 彼女は父に指導してくれる人はいないかどうかを聞いた
父親がつきあっている人が「直木賞」をもらった様な気がすると言う事で、前年に直木賞をとった戸川幸夫先生    父が連絡を取って、友人が一番良い服を着てきてほしいと言われた
毎日新聞の受付に行って、コーヒー店に入る  
友人はコーヒーと言った 私はコーヒーは駄目だったのでソフトクリーム頼んだ   
そうしたら友人が私に足をいやっと言うほど蹴飛ばしたが、時すでに遅く、結局 運ばれてくると
嘗めてないと溶けてしまうのでしゃべることができない
私のことを全部友人は知っているので、先生の質問に全部答える
話が終わって、友人がこうやって、先生にお願いしたから、一生懸命勉強してちゃんとした小説家になるのよ、と私に言った  
先生は椅子から転げ落ちて、今でも目に浮かぶ
後でそれほど絶望したことは無いと、何回も言われた  先生の弟子になる

先生との出会いが無ければ、作家にはならなかったと思う
我が家から近い 遊びにおいでと言われて、犬がいるから気楽においでと言われて 気楽に に飛びついてしまって、伺って、 先生の奥さんがプロ並みの料理家で、小さい子供もいて、一緒にさわいだりして、先生は気がつかなかった
一階には書庫があり、そこで本でも読んでいるのかと思ったら、キャーキャーさわいでいて、先生は吃驚されて、これは行けないと思って、テーマを指定するから、書きなさいと言われた

その年に、売春防止法案 神近市子さん中心 売春防止法案が通った年で、それについて
書きなさいと言われた
その時も又別の友人が、神近さんの事務所につれて行って、日記とか、パンフレットになってあった  それを頂いてきた
彼女が兎に角、本物を見ないとしょうがないと、言う事で、吉原に行った
何にも知らない二人が行った  真昼間に行ったので、乾いたようなところにたどりついた
黒眼鏡の人が出てきて、ねえちゃん、稼ぐのならあと半年は稼げるよと言われて、私はぼーっと立っていたら、友人が突然私の手をつかんで逃げ出した(走りに走った)

命ぜられた、遂行せねばならないというような気持ちは持っていた
とにかく書いて、戸川先生に持って行った  一生懸命先生がそんなところではないと訂正される
9回書き直しさせられる   先生は最も忙しい時だった
君は動物作家になるわけでもない  君は君の小説を書く人だと思う
僕の恩師 自分は何を書くのが適しているか、こういうものを書いたらどうかとサゼスチョンしてくれる、そういう素晴らしい作家を恩師として仰いでいる
君の話をしたので、お許しを頂いたので、大作家もいるが、みんなわけ隔てなく文学を学んでいる  新鷹会  一足先に行くようにと言われる それが長谷川伸先生

そこは超有名な小説家の人が一杯入っている  山岡荘八 村上元三 そういう方々がいた
当時の時代小説の方々いて、一番若いのが池波正太郎さんでした(私より10歳上、私が26歳の時で女は私一人  なんにも知らないでいった)
部屋の障子を開けたら、壁際に先生が座っていた  
お辞儀をしたら、お入りと言われて、入って、言われるままに座ったら、門下生としては一番上席になる(知らなかった)
年を聞かれたが、慌てふためいて、絶句してしまった  
生年月日を 昭和7年3月15日生れと言ったら、長谷川先生が 明治17年3月15日が誕生日だといった  キャッキャとさわぐ
(後で池波先生から、あんなずうずうしい女は初めてだと言われた)