村主 康瑞(僧侶・大学長62歳) サボテンに学んだ命と仏道
兵庫県宝塚市にある中山寺は真言宗の寺で西国33所の第24番札所として知られ、各地から参拝者が訪れます
戌の日には安産を願う夫婦や、生まれて間もない赤ちゃんを抱いた、多くの家族連れがやってきます
この寺の長老 村主康瑞さん(62歳)は50年以上にわたって、様々な種類のサボテンを育てています
その数は300株にものぼります サボテンを通じて、生と死を見つめること、そして仏の道を教えられたことを伺いました 22年から種智院大学長を務めています
サボテンを訪ねて、メキシコに行く サボテンを見ての発見は 感動した 生きているという この条件の中で命をつないでいるという事に非常に感動した
巧みに限られた自然、地域の中で懸命に生きているというところに大きな感動を受けた
残念ながら、日本で現在育てられているサボテンは種子によって育てられている、いわば温室育ち、ワイルドではなくて、メタボなんです
今現在日本で作っているサボテンをむこうに植えたら、おそらく死ぬと思います
種が落ちて、大きくなってゆくのは日本の1.5倍から2倍は時間がかかる
持ってる気質は同じですね
物を育てておられる方、農家の方などは同じ様な経験をなさっていると思われる
種をまいて、収穫まで持ってゆく間に、いろんな世話をする中で、植物たちが育ってゆく中で、いろんな、我々と同じような人生観なり、感情なりを垣間見る事はおそらく多いと思う
命を持っているもの、それには全て仏性を持っていると、そういう風に感ずることができる
サボテンと語り合う事、すなわち、自分の中におられる仏と話をすること、サボテンを介して仏となる性質を、それを探り当てようとしている、そういう事だと感じています
中山寺は亡くなった方、新しい命にも迎える これを昔からやっている
新しい命を迎えるという事は、命が前からずーっと続いてきて、現実の姿として、この世にお迎えする
お迎えしてそれがずーっと大きくなって、年を取って、又この世から姿を消してゆく、消していってその後もまだずーっと命は続いているというのを、実感できる場所でもあるわけです
腹帯を境内で授かって、お産が済んで、腹帯を返しに来られる
昔は帯は高価なので、洗って又次の人が使用する (次の人も頑張ってという想い)
今は衛生上の事もあるので、新しい帯を使用している
その子が大きくなったときに、寺に来たことを話と、又次に来る
かつて来た親の、情景や空気を感じることができる(境内は24時間オープンしている)
人間不安になったりするときに、あそこへ行って拝んでこようと思ったときに、コンビニみたいな要素があると思う
人が宗教に目覚めるときは、生と死なんですね 生死観を持たない宗教はない
死ぬ時も重要ですが、生れる時も非常に重要な場面なんです
神秘さ、感動、繋いできた命が自分の腕の中に、抱いて実感するわけですから
送るときも、あなたの想い、面影、やってきたことは、絶対どっかに伝わっている
教育畑 中、高で16年ほどやる 生徒と接して自分も勉強する
仏の慈悲 あなたの慈悲を目覚めることができますように ということです
あなたと一緒に悲しんで、あなたと一緒に喜びましょう と言うことなんです
このサボテンは5年で花が咲くが、7年ぐらいが一般的
みんな違って、みんないい(金子みすずではないが)
見てやれる目、耳、言葉、そういうものが大切になってくる 特に学校の先生はそう
可能性を将来、もっと高めることができる、次につながるためには、この全体を見ている人間たちの責任はすごく大きいと思う
大学に入ってくる人たちに言うのですが、今までとは違い自分を見つけるチャンスでもある
人間はつい人と比較して、自分を見つめるが、違うよ、おまえはおまえでいいんだと言ってくれる人がいないと駄目
相手の慈悲心に答えられるという事はともに喜び、ともに悲しめる、仏になれている
阪神淡路大震災の時は、炊き出しを100日間行った
復興に向けて、手を携えて、いこうという気概が生まれて、助かった
一番大事なのは心の救い
財を持って貧者を救う 愚かなるものを法を持って裁く
これは普通のことだけれども、貧者を救うのに心を持って救う事が出来たら、愚かなるものを法を用いないで、諭すことによって救うことができる、それが一番最高ではないか
物やお金では埋められない心の隙間は、心で埋めないと埋まらない
あなたは気がついていないかもしれないけれども、あなたを必要としている人はまだどこかにいるかも知れませんよ、と言う事に気がついていただく
そのことは大事なことだと思います