2013年6月9日日曜日

杉江五十鈴(主婦)        ・50万羽の折り鶴に囲まれて

杉江五十鈴     50万羽の折り鶴に囲まれて
50万羽の折り鶴とは 静岡市に住む、杉江光一さんと五十鈴さんの長男 孝之さん(46歳)が30年にわたって折り続けてきた鶴の数なんです  
毎日、夕食後に5cm四方の紙を折り続けています
6歳の時に、孝之さんは自閉症と診断されました  40年前に自閉症と言われても、情報や相談する相手も、施設も無く、自閉症は親の愛情不足ともいわれ、五十鈴さんは大変に苦しい時期を過ごしました 
孝之さんは思春期を迎えるころ、家庭教師から指先を刺激すると情緒が安定するといわれ、折り鶴を始めました

次第に折り鶴に打ち込むようになり、夕食後は必ず自分の部屋で、100羽ずつ折るようになり、両親との会話も増え、表情も穏やかになり、自閉の症状も和らいできました
一方毎日のように折り続けてゆく鶴で家は一杯になってしまいます
長年鶴を折り続ける孝之さんを理解してもらおうと、折り鶴の張り絵 菜の花と富士山 縦60cm横が90cmの作品を創作 静岡のギャラリー展に出品 見事銀賞を受賞しました
これを機に孝之さんは制作意欲を高め、展示会では笑顔で折り鶴の実演をするなどこれまで見せなかった力を発揮します
交流の輪も広がったそうです

菜の花と富士山  素晴らしい作品ですね  36歳の時に初めて作った作品で2360羽のミニ鶴で作った作品  静岡県障害者の愛護ギャラリー展で銀賞受賞で賞状を受け取るときに、本人がとてもうれしそうだったのを記憶しています
夜に自分の作品を頬ずりして喜んでいました
小さい鶴 5cm四方の紙 出来上がりは大人の親指大 手先は器用だと思う 
普通は7.5cmが多い  

張って絵にしてみようと思って夢中で張ってきた
それから10年 27作できた  「牧場の母牛と小牛」 今でもお母さん お母さんと言います
富士山を真中に茶畑  富士山が右上で全体が桜が覆っている 120×90cm 6600羽
色も沢山ある 18色  桜の濃淡をつける 一つの花が4羽
題材も最近は主人が行うようになった(それまでは長い単身赴任だったので)
原画は私の友人が書いてくださった    孝之さんが打ち込めるものが見つかった
小さい頃は言葉が通じなかったので、癇癪を起して泣き叫ぶことが多かった
気性的には激しかったと思います   
人の感情みるのすごく判りますね 
感受性がとても鋭くて、感じているんですが表現できなかったり、返事ができなかったたり、怒ってたことが多いと思う持っているものが気性が激しい  
張り絵をしているときは、注意すると受け入れて、我慢できるようになりました

6年ぐらい前から、「これどこにだしてくれるの?」という言葉が出た
今まで自発的な言葉は無かった  喜びにつながっているとこの言葉で感じた
一日のなかでも言葉のやり取りができるようになった 
見ていただいて、ほめていただいた事が良かったんだと思います

一日の生活のパターンに拘りがある
朝は6時起床(起こしに行く)  着替え、洗面、食事 ひげそり等 順番に狂わない様に支度する
体温測定の体温計の取りだしは絶対私でないといけない いないとそれまで待っている
駅までは主人が車で送っている(私も同乗) 帰るときは5時30分 一人で帰ってくる
鶴は100羽  40秒に1羽ぐらいで折る  漢字の練習、音楽を聴く 3つを行う
中学生から折り始めて50万羽  34万羽までは千羽鶴にしているので確認している
27作品で7万6000羽   そのほかにも一杯押し入れの中にあるので50万羽は越えていると思う

孝之さんが自閉傾向がありますよと言われたのが、4歳の時 保育園に入った時に集団行動ができないので、病院に行ってみるように言われて、そこで自閉傾向の重い情緒障害だと言われてた 
ちょうどその頃、下の子が生れて、毎日が夢中で唯食事を作ったり、下の子を面倒みるという事で、日々が流れて行ったように思います
孝之の場合には2時間ぐらい泣き叫ぶ事があった(自分の事を理解してもらいたいけど、言えないのかと) 泣き方が尋常ではなかった  毎日同じ時間帯に泣いていた
その時の要求が何だったのかいろいろ対応したが、判らなかった
昭和48年ごろ 名古屋ではっきり自閉症を言われた その頃は自閉症という事は判らないような状況だった(親の愛情不足と言われていたころの時代)

私は愛情が無い人間なのか、一般の愛情と言うのはどういうものなのか、一般の人とは違うのかなあと本当に不思議で自分を責めたというか、愛情ってどういうものかわからない事がいっぱいあった
転勤が多くて小学校が4回変わる 
中学、高校が静岡大学の付属養護で卒業 就職するが、仕事はできるが休憩時間にいたずらをする  
一緒について仕事をやったりしたものですから、私までも理解してくれないと思ったらしくて、やったことが逆効果になって、外に出て行った夜中まで帰ってこなかった事がありました (横浜に主人が初めて単身赴任した時期でもあった)
8月には仕事も辞めて、外をうろつくようになって、夜中の2時、3時までウロウロして、家の階段のところでぐったりして、寝込んでしまう 呼ぶとふらふら入ってきてご飯もたべたかどうかそこそこに、ぐったりして寝る生活が続いた  その頃が一番つらかった(私だけに反抗する)

どうしようもなく県立の富士見学園に入れていただき、そこで8年間お世話になった
集団行動ができなくていたが、やっと落ち着いて帰ってきた
(4人部屋で机を占領することはできなかった  鶴を折る事は無かった)
鶴を折ってみたほうがいいと言われたのは、通学のころ落ちつかなくて、いろいろやってみたが誰かが一緒にやらないと続けなかったが、鶴は一人でできるので、鶴に落ち着いたのではないかと思う

周りの人の力も借りて今日に至った  鶴を折ることが人生の大部分になった
増えてゆく鶴をどうしたらいいかと悩んでいたら、友人に張ってみたらどうかとのアドバイスを受ける それがきっかけになった
下絵を作って張りはじめた  1作目 
誰かに作品を知ってもらいたいと思って、県の総合福祉会館で1週間やらせてもらったのが最初
とても勇気がいりました  
1週間で終わる予定だったが、展示室に移動して1カ月延長させていただいた(合計40日)
孝之さんの反応は?  小学校の生徒が来てくれて、教えてほしいと言われて、折って見せることができた それから徐々に皆さんに見ていただく喜びを感じたようです
アビリンピック 国際障害者技能大会の会場でも折り鶴の張り絵を行う

折り紙を配って折ったものを回収して、張り始めた  空間を残しておいて、外国の方に張ってもらって完成させる  隆行も3日間行う  とてもいい経験になった
しゃべる事が出来る様になって、自分の子供でも知らなかった事が見えてきたように感じました
記憶力も凄くある 学園生活のころは 100名の園生と先生は50名ぐらいいたが、当時は言わなかったが、全員の方の名前を知っていた(当時は心を開かなかった)
こういう人柄だったんだという事が40歳過ぎてから解るようになった

うちの場合は続くものが、鶴を折ることだったので 自閉症の方にはいろいろ試されて、続くものがあったら、それを見守ってあげて続けさせてあげてくださいと申し上げています
みんな一人ずつ違う 
個性、輝くものを何か持っていると思うのでみんなで見つけてあげてください
言葉を発するようになって、自分が何かを言えば、返事が来るという事を判って、言葉が増えてきたと思う  喜びを感じる
笑顔を見ることが私たち両親の喜びでもあるんです

東京大学名誉教授 江川滉二氏の言葉  静岡新聞の「窓辺」という欄に掲載 
「何故障害者が生れてくるのか、その理由は多くの場合、判らない  
現在の医学では障害者が生まれてくることを、完全に予防することなど出来はしないのだ
単にある確率で障害者が生まれるのである  
確率の問題と言うのはだれがそれに当たるかという事は判らないと言う事である 
私だったかもしれないし、あなただったかもしれない
逆にいえば私たちが健常で入られるのは自分の力によるものでは全くあるまい 
障害者として生れた人がそのくじを引き当てて、運の悪さを引き受けてくれたのにすぎないのだ
自らの意志ではないとしても、障害者として生れてくる事を引き受けてくれた人がいるお陰で、我々が健常でいられるという事は数学的な事実であって、疑う事が出来ないと思う
だから障害者は障害を持って生れた瞬間に、すでに我々に対してこれ以上が無いほどの大きな貢献をしてくれているのだ
世の中に大きな貢献をして、引退した人に対するのと同様に、私たちは感謝を持って障害者を遇すべきではないか   
かわいそうだからではない、私はそう考える」

この文章が私の心の中にあるから、こんなに大変だったけど頑張れた、と言うのがとってもありまして、この文章は私に取って大事な文章なんです
現在、28作目を構想中(富士山と桜を題材に)