昭和19年 宮城県生まれ 法政大学卒業後、ラジオの台本作家を経て、昭和46年「酔いどれ女の流れ唄」で作詩作曲家としてデビューしました
昭和51年「山口君ちのつとむ君」がミリオンセラーとなって世代を越えて多くの人に歌われました
この発表から15年経ったある日、つとむ君は母を亡くした、自分自身で有ったことに気付きました
芸名はフランスの詩人アルチュール・ランボーにあやかったものである
山登りは毎週のように行っている 雪山も登る 5月になってからですが、登るときは調子が悪い時があるが、登ってしまうと 次どこかに行こうかと言う事になる
中学1年の時に、学校登山をして先生から山の名前を叫んでいるのを聞いて、ジーンとした事を覚えている
その数カ月前に母親を亡くしている
それ所ではなかったが、友達から誘われて山登りをすることになる
そこで何とかやっていけそうだなと感じた
37歳で母は亡くなった
4つか5つ位の時に仙台に七夕祭りを見に行った
時々母親の手を離れて、見ていたら 母親だと思っていた人が別人だった
母親がいないと言う事でパニックになって、泣きだしてしまったが、直ぐに母親が「何やってんのよ」と声を掛けられて、母親のいなくなったことに対して、ひどく吃驚した事を思い出した
小さい時から自然の中で育った
いぐね:屋敷林 こんもりした森になっている
家の周りにリスがいたり、青大将がいたりしていた 虐めちゃいけない
青大将は守り神だからと言われた
一つの川で牛を洗うのに使い、人間が野菜を洗ったり、魚釣り、泳いだり、冬はアイススケートをしたりして、遊んだりしていた
母親は大変だったと思う 今思うと凄く元気のいい母親だったと思う
薪き割り、風呂焚き 等 生活の中でいろいろなことを体験してきた
周りの人との係わりの中から育ってきたので寂しさは無かった
母は突然 脳溢血で亡くなった 実家に用足しに行って実家で倒れてしまった
自転車で実家に行ったら、近所の人が座敷にいて、その場面は鮮明に覚えている
仁王様の様な怖い顔をしていた 死と闘って、歯ぎしりをして、歯が折れた
このままだと舌を噛んで死んでしまうので、脱脂綿を箸に巻いて、噛ませていると言われた
死と言うものは恐ろしいものだと思った
母親は死と一生懸命にたたかって、負けたのかと言うな風な感じだったですね
いびきのようにゴーゴーと息をたてていた
多分今晩越せば大丈夫だろうと医者は言っていたが、2日後には無くなってしまいしたね
茫然自失と言った感じだった
河原を一人で歩いていた時に 猫柳の花が咲いていて、それをずずーっと取って、それを石でも投げるように向こう岸に、思いっきり投げたんですが、それがふわーっと鳥が逃げたように、こぼれましたね
その手ごたえの無さが、右手、肩に残っているんですね
母親を亡くしたのは、まさにその手ごたえの無さでした 12歳の時でした
9月の残暑の厳しい時だったんですが、誰も居ない部屋に入るときも「ただいま」という癖がある 廊下のカーテンを開けて、半分閉めて畳に横になった
そうしたらシーンとしたの部屋の中でコトンと音がして、お母さんいるんじゃないと台所に行ったら、台所はシーンとしていた その時は泣きました
波が台所から僕の部屋に押し寄せて来るような気がして、泣きました
悲しみが来るまでひと夏掛ったんですね やっぱり駄目なんだなと観念しました
それまではいつか帰って来るような気がしていましたね
例え悲しいことでも負のイメージとしていつも振り返って、後ろ髪を引かれていると、矢張りそういう
思い出になってしまうと思うんですよ
それも良い経験だったと思えば、案外プラスに出てくるんじゃないかと後で思いましたね
「山口君ちのつとむ君」が大ヒットした後に、モデルさんは誰だったといわれたんですよ
当時は山口百恵さんの全盛期でした 百恵さんのファンなのと言われました
あの歌にモデルなんかいないと言っていた
処が「この頃少し変よ ・・・」と言う歌詞が、まさしく自分の母親をなくした心理そのものだったんですね
実際作ってから15年経った エッセーを書く事になり ふと昼下がりの光景がびびびーっときたんですね
そうしたら俺自身がモデルなんだとはっと気付いたんですね
幼児の気持ちを借りて吐露してたんですね 熟成されるんですね
「ウイスキーの小瓶」で歌手デビューした
中学の時に作曲をして、先生から作曲の才能が有るかも知れないと、言われて 気にするようになりこの道に進んだ
核になっているのは、小さい時に亡くなってしまった母親のいろんな思い出が、熟成されてる事と、育ててくれた自分の故郷の体験、が有ったからこそ、故郷から出てくる 頑張ろうという 応援してくれる 後押ししてくれる
その中に亡くなった母親、父親がいるんじゃないかと言う気がします
目を閉じて思い出す母親は若い元気な母親なんですよ
しわの有る母親は知らないんですよ 溌剌とした母親なんです
そういう母親を思い出すのは幸せです