2012年10月17日水曜日

宮本輝(作家65歳)       ・創作の源泉を語る

宮本輝(作家65歳) 創作の源泉を語る
1977年『泥の河』で太宰治賞、 翌年『螢川』で芥川賞を受賞するなど、 数多くの純文学作品を
世に出しています  2010年には紫綬褒章を受章
現在 芥川賞の選考委員を務めている   
第二の人生に挑戦する50代の女性を主人公にした「水のかたち」という長編小説をこの秋に出しました
27歳から小説を書き始める  現在 107,8冊になった  
35歳の時にある方から後50年小説を書きなさいと言われた  
待てよと85歳まで小説を書くのは無理だと思った
小説家は長生きしないと負けだと 宮本さんであったら年に2冊は書けると、疲れたら休む、
そして書いてゆき、そのリズムを作って言ったら、書けると言われた
そうすると50年で100編の小説が書けると、そうすると、量だけで世界一の小説家になれると、
質は後回しかなと 、量だけでも世界一になろうと思った
純文学でそれだけの量を書いている人はいない  それで決した  
30年経って、営々と書き続けて 100冊は越えた
85歳まで必ず生きようと 100編書こうと、思っている 
 
自分の能力を使い切る それが生きると言う事だろうと  私も人間なので行き詰る事もあるし、
何にも出て来ないと、 50歳過ぎた頃から 100文字は書けない
1字 1字 書くしかない  
それが30文字になり 50文字 400文字になりやっと 原稿用紙1枚になる 
 800枚、100長編小説をかくぞと思った時の
取りかかった時の1枚の薄さ  絶望的なものです  
翌日3行しか書けないときもある 
そして100枚になり それでも1000枚にはまだまだ足りない

まだまだ足りない  結局どうするのかと言うと 書きたくない、書けない と言う日は書くんです
 そうしたら動き出すんです
どんな仕事もそうじゃないかと気が付いたんです 勉強もそうじゃないかと思うんです 
今日は勉強は嫌だな、学校へ行きたくないな 会社へ行きたくないな
その時に休んでしまったら終わりなんですね  
その時に勉強するんです、学校に行くんです 
会社に行くんです 仕事をするんです
そうした時に又その流れに入っていけるんです  
私の場合は小説を毎日毎日書くと言う事で、それを覚えて行ったんです
嫌なことをやるんだと、嫌なことは先ずやるんだと そうしたら嫌でなくなるんだと 
そうやって37年間 毎日毎日書いてきたんですね

自分の力と言うものが、自分の中に有って、自分でも気付いていない力は、そういう時にしか
出て来ない  それを私は小説を書くと言う事で、知ったんですね
それは ありとあらゆる職業 ありとあらゆる人間の営みと言うのがそうです 
嫌な時はそれをするんです それがコツです 
物事は 一滴、一滴 一粒 一粒の積み重ね以外、いかなる方法も無いんです   
「水のかたち」  東京の門前仲町に住む50歳代の女性の目からみたものです   
その年代の前に大きく立ちはだかってくるのが更年期だろうと、俺にも更年期が有ったなあと思った
何かにつけてネガティブに成り覇気が無く 妙に膝が痛かったり、不調だった
もっと女性の方が大きな坂を越えるんだろうなと、明るく越えるのか 子供の一番お金のかかる

時期で 会社も左前になって、 肉体的に、経済的に大きな関所が待ち受けている年代だろうと
そこをケチくさい、世知辛い世の中ではあるが、夢語り様な、幸運、とか幸福とかと
言う思いがけない
幸福がまいこんだとかそういう小説を書きたかった
暗い小説は嫌だと 皆が幸せに成ってゆく小説を書こうと思った  1280枚の原稿になった
起承転結 転に入った所  後20年どう生きて行こうかと思う時   益々世の中は生きる希望を
奪って行っている時であるが、政治のせいにする訳にも行かず
すこしも展望が開けないので、じゃあ自分がどう生きるかと言うところに入ってゆくんですね
50歳になって判ったが、これから男が始まるんだという感じだった  
田辺聖子が「60,70歳何て鼻たれ小僧よ 私80歳になって之が判った」と言った
90歳の女性に「80歳も鼻たれ小僧よ」と言われた 
 
私は60歳になった時に、本当に自分の50代は
何て子供だったんだろう、何てアホ臭かったんだろうと思った
70歳になったら、60歳何てなんとあほくさかったんだろうときっと、思うんでしょうね  
80歳になったら、俺70歳の時に世の中判った様な事を言っていたけど
まだまだ青二才だったと思うんだろうなと、思います   それは自分の心の問題なのですから
中国の故事から自分の考えていることは小さいなと思った(24,5歳の時の読んだ)   
醗酵するまでに35年掛っている
引き出しが一杯有って我楽多が一杯詰まっている  自分の力による発酵が必要   
ありとあらゆる処で発酵は起こってると思う

発酵は絶対若い頃には出ない  50歳過ぎないと駄目  発酵されたものがちょっとした言葉で
青年を勇気付けたり、あるいは、苦しんでいる人を励ましたり
苦労したね、頑張れよと 何でもない普通の言葉が言われた人の心を物凄く励ましたならば、
その言葉の背後にその人の経験したさまざまな苦しみとかというものが、発酵してきたからなんですね
その発酵の凄さというのは、最初に書いてみたかった(今回の小説)
悪人と言うのは、ほっておいても、結託する  善人はなかなシャイで、あんまりつるみたがらない 
心根の良き人達はもっともっと繋がり合って行かないといけない
そのつながりが、何も求めていたわけではないのに、新しい人生、新しい人生、愛情、友情を
自然にはぐくんでゆくんだと、生みだしてゆくんだと、自分の人生の中で何度も経験している
人をだましてやろうとか、人をいじめてやろうとかは、そういう人達は 良き人達の繋がりの中には
居られなくなる

ほっておいても其の人達は、自分達と似ている人達の処へ行かざるを得なくなる  
そうすると私達は、良き人達の連帯と言うもの、を私達は意図的に作りあげてゆく必要が
あるんじゃないかと思います
そういう事を思い起こすことは、大きな災害が起こった時、去年の東日本大震災の時もそうです、 
今まで全く考えもしなかった人たちが、大きな災害があった中で
助け合って、とかいろいろなエピソードが生れてますけど  そういう時に人間とは 初めて人間とは
一人では生きていけないんだと同じ繋がるのなら、心の清らかな人達と繋がり合おうじゃないかと  
そうしたらきっといい事が生れるよ、とそういう事を「水のかたち」の中で  具体的にそれによって
何が生れたかが、この小説の中で大事なことなんです
比喩が真実に変わることがある それは具体性が無ければ比喩=真実には成らない 
そのために、この小説の中で何を具体として表すかが、途中で大変苦労した処ですね

知り合いの娘さんから父の遺品があることの連絡があり、(30年ぶりぐらいに) 手記を渡される
(終戦1年後、北朝鮮から日本に海路を辿って帰って来る様子)
「水のかたち」 の連載を始めてまだ2,3回目の頃に手記を渡された  
予定に入っていなかったが、これだけは絶対に書き残したいと思った
朝鮮人の手助けにより帆かけ船を用意して貰い、何とか海路で逃避山口県から京都に安住の地
を得るのだが、手記は途中で終わっていたが、良き人達の
連帯と言うこの中に断固主役として入ってくるものだと、思ったが中途で終わっている 
しかし奥様が健在だったのでお会いして、聡明で記憶力もしっかりしていて
克明に覚えていて、私が纏めた   殆ど正確にこの小説の中に入れてある

当時、朝鮮でにげかえる時に、南に行くか、北に行くか、右に行くか、左に行くか、列車に乗るか、
乗らないかで、生死が別れて行った
本当に人間の運命と言うのは綱渡りのような ほんのちょっとした違い何だけれども
、一体その違いは何で起きるのだろう 何なんだと 人知を超えた不思議な
法則があるのではないだろうかと   
朝鮮の日本人街で当時暮らしていた横田さんは呉服屋を営んでいた時に北朝鮮の従業員を
家族のように扱った(ほかの人は安い給料でこきつかったりしていた)
終戦で日本人が蔑まれる中、その人達が横田さんを救ってくれた

水はどんな形にでもなる  しかも流れている  「しのこ」をこの様なものにしたかった  
自分の家庭が六角形ならば六角形にしてしまう
意図的にそうしようとしているのではない  自分に与えられた場所に自分が自然になれると
言うのは大きな特質だと思う
人間が陥る一番いやな点   例えば自分は80点だとする  ひと前で自分の実力以上に自分を
評価されたいと思っている  それは心の中に眠っている
「しのこ」は自分を自分以上に見せることは無かった   
これがしのこにとってもっとも人間としての強さなんだと、ありのままでいいじゃないかと 
それでいいじゃないかと  何でそれ以上に見られたいのかと  書いた以上 
そうしたいと思っているが