2012年10月14日日曜日

白石敬子(ソプラノ歌手)      ・声楽はがんと闘う心の糧 

白石敬子(ソプラノ歌手)  声楽はがんと闘う心の糧 
日本の音楽大學をでて、ウイーン国立音楽大学を首席で卒業して、1976年日本人では初めての
ウイーン国立歌劇場の専属歌手になりました
ヨーロッパで活躍してから神奈川県を中心に活動を続けてきましたが、末期がんにかかっている
ことが判り、余命5年と宣告されました
何回もの手術を乗り越え、来週にはデビュー45周年の記念リサイタルを行う事に成っています
リサイタルの前には2カ月間 抗がん剤を断つ そうしないとちゃんとした歌うフォームに成らない  
終わってからヨガで体調をコントロールしている
ウイーンで若い頃、訓練した勉強方法  足のつま先から頭のてっぺんまでが全部が楽器  
身体の隅々まで手入れをしないといけない
抗がん剤を断つと、その2か月で必ず転移している  合計11回手術している その繰り返しです
癌が転移するのを覚悟して抗がん剤を断つ
本当は1年間じっとして、抗がん剤を投与していればいいんですが 先生との約束の元にやっています
武蔵野音楽大學を卒業  ウイーンで勉強(音楽の都というイメージ 憧れを持っていた) 
1969年 大学を出て2年目にゆく  毎日毎日興奮して過ごした
ベートーベンが遺書を書いた使ったままの家を見学した 
階段はそのままだったがそれはその後改修されてしまった  

日本の音楽大學とはシステムが全く違う レッスンレッスンの明け暮れだった
想像を絶する授業内容だった 8時30分~6時まで 昼休みが無く10分の休憩のみ 3年間  
4クラスあるが全員先生(13人)が私を1位に推薦してくれた 首席で卒業した
コンクールで実績を作っていかなければならない  1974年に大きなコンクールを3つ受ける 
いい成績を取り それから自然に道が開ける
メージャーのオーディションを受けて、この劇場に来なさいとか、コンサートに呼ばれたり、チャンスが
降ってわいた  ウイーンは保守的でした

最初はあからさまにこの日本人 オペラが歌えるのかと言われた  
遅刻はしないように、挨拶を欠かさず1年経ったらガラッと変わって、日本人とは何て清潔な
、真面目な人種だろうと捉えられた  2年目からは楽になった
今なら日本人が沢山行くようにはなったが、当時は日本との交流も少なく、インテリでもふじやま、
芸者のイメージしかなかった
1976年ウイーン歌劇場のオペラ歌手として歌うプラシド・ドミンゴさんが指揮者としてデビューしたときに歌った  大ベテランと共演させてもらった  思い出深い劇場です

(名指揮者のエレーデ、パタネー、シュタイン、ドホナーニ、名歌手のニルソン、コソット、ルートヴィヒ、ドミンゴ、シュライヤー、ベリー、ギャウロフたちと共演)
ニューイヤーオペラコンサート(NHK)にも参加 ウイーンから帰って参加  41歳の時に日本に戻った  
母の事が心配で帰って来る
母の事で絶対後悔したくないと思った 親孝行のまねごとが出来た
神奈川県の藤沢を中心に活動する (ザルツブルク モーツアルトの誕生の地) 
藤沢を日本のザルツブルクにしたいと思った 藤沢市民オペラに出演させて貰う 
音楽の街にしたかった
オーストリアでもドイツでも 小さな街でもニューイヤーコンサトを開催する 家族で盛装して新年を迎える事が定着している 藤沢ニューイヤーコンサートは有名になる  今年で20年になる
ニューイアーコンサートだけは抗がん剤を断って、参加するようにしている

初めて癌が判ったのは  2004年1月 来週ウイーン行くと言う時に ちょっと目障りなことが有った  
近くの医者に行ったらレントゲンだけでズバッと言われた
大至急 手術する病院を見つけなさいと 病院にいったら大腸がんですと、いきなり手術した  
がんは16,7年育っていたとの事(大きくなっていた) 
疲れ防止の薬を飲んだり、ヨガをやってたりしていたので判らなかった (末期進行性大腸がん)
先生からは手術しても手の施しようがないと言われた 4時間手術した(転移は無かった)  
その後 腹膜に転移があることが判り、抗がん剤対処することになる
不安だったが、この病気は逃げていてもしょうがない 運が良かったのか良い先生にも恵まれて
、段々月日がたち、私も助かるのかなと思ったり、同時期に手術をした人達が
段々亡くなったりするのを、目にすると 矢張り助からないのかなと思ったりした 
 
目の前にやる事が沢山有ったので、ここで終わっては残念なので、無理は駄目だけれど、
旨く付き合えば生かしてて貰えるのではないかと思った
ヨーロッパでの舞台経験、特にフリーに成って 相当精神的に強くないとやっていけないので、
何が来てもいいように準備してゆくので、性格等も自然に強くなった
先生に委ねてあるのだから私一人でどうこうするのではないので、人生は自分で決められないと
思って、出来るだけ良い患者さんでいたいと思った
現在9年近くたっており、抗がん剤と手術で対応してきた  
4年前から強い抗がん剤にした  
自分の目的があるから 立ち向かえたのだと思えます

お腹の手術を沢山やっていて、歌を歌うと言うことは腹筋を凄く使うので、しっかり縫ってくれと
言ったが、2年前には縫った所が裂けて仕舞って、腸が全部表に出てきてしまった
入院し全部縫ったが、長年の抗がん剤の為にべろべろで3重に縫って貰った  
自分のお腹ではないような感じだった  
お腹は声楽家にとっては心臓のようなもの
昨年夏、もう歌えないかなと諦めかけていたら、沖縄にコンサートで行ったときに お腹が動きだした  
今年のニューイヤーにかけてみたら、昨年よりお腹が使えるようになった
その時は何とも言えない喜びだった  
音楽の神様が私を救ってくれたと思った 
勇気付けられて、 それが今回のリサイタルに繋がった
3・11当時手術の直後だったが、映像をみて、何かできることは出来ないかと 義援金の為に
チャリティー公演をする(ウイーンで学んだ精神の事があり 無報酬の精神が根付いている)
阪神大震災の時も行った 
大成功だったので、今回も直ぐにできることはそれしかないと思って昨年も実施した 
会場が異様な雰囲気になってあたかも何カ月もリハーサルをして、やったオペラの時のカーテンコールと全く同じ雰囲気になって、本当にやってよかったと思った

自分自身も勇気を貰った  私は病を持っていても何不自由なく生かされている 
今何でもできると思った やらないと罰が当たると思った 被災者の我慢強さに感激した
45周年リサイタルは希望の芽が出てきたので先生、助けてくれた友人、知人への感謝の気持ち被災者への祈り、希望 の気持ちを伝えたい
今回は旨くメッセージが伝われば良いと思っています  
本当にいろんな意味で、生かされていると言う事を本当にひしひしと感じます
勝気なせいか、リサイタルが終わると必ず、何か次の勉強の課題が見つかる  
それにチャレンジすると言うのが、生きる目標  音楽を続けさせるエネルギーとなっている
身体が楽器なので 努力すれば老化もゆっくりになるし、ウイーン時代の先輩方の多くの事を学んだ(ニコライ・ゲッダ、ビルギット・ニルソン)  企業秘密と言える事を教えて貰った
と言う事はお前さんやりなさいよと言われたと思う 一日でも長く出来ればいいなと思う 

時間がたつのが早く感じるので、1秒でも有意義に過ごしたい
何にもしないでいると言う事は、考えられない
がん患者に対して  気持ちを強く持つ 絶対に諦めない   
抗がん剤とかどんな家族愛が強くても本人の苦しみ、悩みは判らない、やった人にしか判らないいろんな苦労があるので、聞いてやったり、アドバイスしたり 力強くさせたり、それで役に立てれば
いいなあと思っています  
避けられない事ですから でもやれば必ず何か知らず良い結果が出てくると思う 
手術した後は患者は病院に行きたがらない 遅れて行ったため悪い結果になることがあるので、
アドバイス、注意を呼び掛けたりしている
そのうちに良い薬が出来て来ると言うので、それまで頑張っていたいと思う