新聞記者だった大森さんは日本の魅力を知らないまま帰国する中国人の留学生が多いのを知り、24年前勤めていた新聞社を辞めて妻とともに日本の出来事、生活について掲載する機関紙や教材を、作成して日本語を勉強するひとたちに送りました
拠点、国際交流研究社には、次第に中国人の留学生が多く訪れるようになりました
ニュースを聞いていて、一番気になるのは、中国で日本語を勉強している人が如何思っているか 反日デモが拡大 メールが50通以上来る
学内でつらい立場にある 日本語をしゃべると肩身の狭い思いをしている とのメールが学生から来る
日本語を勉強している人は450近くの大学に日本語学科がある
正確な人数は判らないが、40万、50万人と言われている
これは一時的なもので必ず良くなると先生からはメールが来る
ホームステーした人達がいる
24年間の間に,1988年に新聞記者当時に いろんな留学生に、取材していた
其の時に中国の留学生に出合い、生活ぶりを聞くと、40位の所に奨学金の依頼をしたが全部だめで アルバイトしかないと、短期間のアルバイトをやりながら学校に通ったそれだけならごく一般的な留学生の苦労だと思ったが、彼が日本に不満を持ったり,日本を批判して帰国する留学生が多い
多くの中国の留学生は日本を嫌いに成って帰って行く人が多いと 経済的な苦労は我慢ができるが、折角日本に来て日本を知って、日本からいろんなことを学びたいと思っているのにそれができないと言うのは残念ですと、彼が言った
一体日本の留学政策と言うのは何なのか、折角日本に来て、日本語を勉強して、日本の良いところを学んで帰国するのが目的であるのに、不満を持たしたまま,帰らすと言う事でいいのかと疑問を感じて、日本にとっても損失であると、もっと大事にしなければいけない、もっと日本の事を知って貰わなければいけないと,自分はそういう日本語で日本を理解する学習誌を出して、留学生に配ろうと、留学生だけではなくて、中国、或は他の海外の国の学生に送ってもっともっと
日本のことを、知って貰いたいと思ったのがきっかけだった
47歳の時だった その1年後に会社を辞めた(政治部にいた 勤続5年の時)
経済的な苦労はさせないと言う事で 妻に了解を求めた 最終的には賛成して貰った
機関紙 「日本」 26ページ 日本の出来事等を紹介した 中国を余り意識はしていなかった中国では情報に不足していることが 解り 副教材として,使われだして、手紙とかがいろいろ入ってきて、もっと中国に力を入れなければいけないと思うようになった
記事の中で「日本で生活するには」 ハウツー物がとっても解りやすい
日本の独特なやり方がある事を紹介 二人でいろいろ工夫した 4万部作成する
3万部は日本国内 1万部は海外 に展開 8年間出した
2年目の後半から殆ど中国になる(日本の新しい情報を始めて判った)
毎回二人でいろいろ考えた 出すといろいろ良く見てくれている
反響があるためにこちらも張り切る
最初の2年間は全て手書きだったので大変だった(3か月に一回 出版する)
国際交流研究所はどこですかと、是非見たいと言う事で来た人に、場所を見せる
4畳半で仕事をしていた場所の紹介 皆が吃驚する
壁に中国全土の地図があり、今まで交流した大学にラベルを張る様にしていた
数えてみたら213個有った 中国全土にまたがっている
新彊ウイグル地区にも日本語学科が有って、辺境の地でも日本語を学んでいる
中国で日本語を学ぶ学生 日本語を学ぶことに対して周りが凄く批判的なんですよ
周りから売国奴と呼ばれることが珍しくない
日本語作文コンクール 3412遍の応募が有った
優勝作品でも 自分が日本語を勉強していると言うと、親戚からお前は売国奴に成りたいのかと書かれてあるが,決して珍しくない 当初始めるころはそういった知識は無かった
活動を広げてゆく中で中国の学生の生の声、先生の立場の辛さが段々解ってきまして、
中国の人が日本語を勉強することの厳しさが解って、彼らの力に少しでもなりたいと思った
作文コンクール 最初の5年間は日本にいる留学生が対象だった
青森大学に短期留学していた先生との交流も始まり、日本語の一番の悩みは書く事だと
読み書きは進んできているが書くことは遅れているので、中国の大学生の書く力を高めて下さいと言う提案が有った
先生が帰った時に、一緒に行って日本語学習とかを見学させて貰い、そこから始まった
15回続いている
第一回目は50点(中国内部で予備審査あり)
パンダの視点で日本と中国をみた作文が1等賞になる
「草の根の交流がどうしても必要なのだ これからも中日両国はお互いに偏見や誤解を捨てて、抱擁しあい、理解しあい、手を携えて 一緒に人間性豊かな
21世紀を目指すように、頑張って行ったらと僕は心から願っている
21世紀の中国と日本が仲の良い兄弟姉妹のように以心伝心で、交流できるようになれば
もうシンボルというようなものは要らなくなるだろう
僕もその時に久しぶりに四川省の山に帰って、思い切り コロコロと転がったり楽しい夢を見たり、静かな老後生活が送れるだろう 楽しみだね」
パンダになり切って日中を見てる この作者は 駒沢大学の講師に成って活動している