2017年5月5日金曜日

横堀三千代(ファミリーグループホーム運営)  ・130人の“お母ちゃん”

横堀三千代(ファミリーグループホーム運営) ・130人の“お母ちゃん”
1932年群馬県前橋市生まれ、養護施設で 30年近く働き、夫の哲夫さんとともに昭和57年、前橋市にファミリーグループホーム横堀ホームを開設しました。
これまで35年さまざまな事情で親と暮らせない130人以上の子供たちとともに生活を共にしてきました。
ファミリーグループの開設は前橋市の山林の開墾から始まりました。
建物や畑を作り、鶏、やぎ、うさぎを飼いました。
一緒に食事を作り家事も分担して行いました。
横堀さん夫婦が大事にしたのは、子供たちみんなが自分の家にいるような環境を作ることでした。
七五三や成人式にも晴れ着で参加しました。
我が子を含め20人近い家族だった時もありました。
ホームの35年には看護士、調理師として自立したと言う子もいれば、84歳で亡くなるまで過ごしたと言うことです。

なかなか土地が見つかりませんでしたが、夫の生家の山を使ったらいいと、夫の兄夫婦に言われて開墾し始めました。
写真集を作り喜んでもらっています。
夫とともに養護施設で30年近く働きました。
養護施設と里親の中間のようなものの養育機能が必要だと気付いて、子供の声が聞こえ、生活の音も聞こえる家を作りたいと思いました。
多い時は15人ぐらいいました。
児童相談所を通して預かった子ではなくて、あちこちからやってきて、藁をもつかむ思いでやってきた人たちでした。
1年間の猶予期間を置いて、蓄えたお金も全部つぎ込んで行いました。
自分の子のことも少しは考えないといけないと親からは言われましたが、出来るだけお金を使わないように、雑木林の木を倒したり根っこを掘ったり全部二人でやりました。

鶏、やぎ、うさぎなどに接する事がなかった子供たちだったので、鶏、やぎ、うさぎを飼いました。
やぎのお産をみんなで見守って、生まれた時の感動を味わったりして、命の誕生を心から喜んでむかえ、厳粛に迎えようと一人一人の心の中に養いたいと、やぎのお産を見ながら考えました。
高校生の少年、アマチュア無線の試験があることを知り、彼がそれに合格して地方紙に載り、無線機販売業を営む人がいて、ホームに無線機を設置したいとの申し入れがあり、取り付けていただいた。
地域の方の方々の温かい支援があり、頭が下がった。
最年少の子を預かったが、泣きたいのに泣くことができない、声も出なった、この子は泣けないことで何かを伝えようとしているのだろうと思った。
しかし一度ポトンと涙がこぼれおちると、何時までも泣きつづけた。
ずーっと抱き締めて男の子が疲れて眠るまで抱き締めていた。
周りはただ無言で見詰めていた。
それを見つめて居た子が、ああいう親になるんだと、後に或る子が想いを語ってくれました。

「母の周りではいつも小さな子がそばにいて母の膝は空いていなくて、でも私(実の子)はすこしも淋しくありませんでした。
母の作ってくれた洋服には必ずどこかに刺繍がしてあり、私(実の子)はお母さんと一緒にいるようでした。
そこだけがいつも温かでした。」

27年前、或るおじさんが何処も引き取り手がないままにいたが、突然民生委員の人とともに来て、住所不定の人でしたが、夫が預かると言うことになり、シャワーを浴びてその日から家族になりました。
それから24年横堀ホームで生活して、おじさんはめされて行きました。
婚礼に招かれ婚礼の引き出物の中に末広の羊羹があった時に、20人近く居て、羊羹を狭く切ってそのおじさんにも与えようとしたら、「俺はでっかさじゃないんだよ、どんなにちっちゃくても俺をみんなの仲間に入れてくれる、それが嬉しいからでっかくなっていいんだよ、うめーなー」と言ってくれました。
おじさんが菜の花の種を土手にも蒔いてしまって、そちらのほうがよく育ったと言うようなこともあり、楽しい思い出が沢山あります。

魚の木彫を夫がたくさん作って、沢山の魚に感謝をしたいと言っていました。
何時も時間が足りないと言っていました。
「父は木の繊維が曲がっているなら曲がっているなりに、節があるならあるなりに、穴が空いていれば空いているなりに、その形に添って磨きをかけていくのである。
決して無理な形に切ることはない。
すると磨きあげられた木はこれがあの廃材だったのかと、目を疑うほどツルツルとして光った顔を見せる。
木が生まれ変わる、こんな柔らかさがあるあの木にあったのかと驚いてしまうのである。
或る時私はふっと思った、父の人間に対する考え方、見方、接し方と同じかも知れない。」(娘の文章)
夫が亡くなって15年になります。

夫が口も利けなくなったときに、口の動きで夫が「こ・ど・も こ・ど・も」と言ってこの世を去って行きました。
話したら子供たちが寄ってきて泣きました。
昭和20年8月15日 第二次世界大戦が終わりましたが、前橋は瓦礫と化してしまっていて、物のない時で、広瀬川の橋のたもとにいる男の子達には帰る家がないのだ思って、間もなく教会に通い始めて「喜ぶものと共に泣くものと共に泣きなさい」という言葉に感動して、ともに泣く人生を送りたいと思いました。
将来は子供たちと一緒に暮らそう、生きていこうという原点が与えられたと思っています。