2017年5月13日土曜日

吉崎俊三(信楽列車事故遺族会)   ・最愛の妻を奪われ、闘いは始まった

吉崎俊三(信楽列車事故遺族会元世話人代表)・最愛の妻を奪われ、闘いは始まった
1991年5月14日滋賀県信楽町、信楽高原鉄道線内で列車同士が衝突して、42人が亡くなり628人が重軽傷を負うと言う大事故が発生しました。
焼き物の街で知られる信楽では世界陶芸祭というイベントが行われていて連日賑わっていました。
京都から超満員の乗客を乗せて信楽高原鉄道に乗りいれたJR西日本の臨時快速列車と信楽駅を出発した信楽高原鉄道の普通列車が同時に単線区間に入ってしまい、正面衝突したのです。
事故の後、信号の設計整備の段階で両者の連絡不徹底があったことが判明、信楽高原鉄道側が赤信号なのに列車を出発させたり、手信号の手順を守らなかったり、信号トラブルが相次いでいた中で双方の鉄道会社がその原因究明をあいまいにしたまま大勢のイベント来場者を運び続けるなど信楽高原鉄道とJR西日本鉄道の両者の杜撰な運行管理が問われました。
明日でこの事故の発生から26年になります。
吉崎さんはこの事故で妻を失い、二人の娘が大けがをすると言う体験を乗り越え、他の遺族や弁護士、交通の専門家らと一緒に、鉄道事故防止の仕組み作りのために声を上げ続けました。
鉄道会社という大きな組織と向き合った日々を振り返っていただきました。

11時過ぎに喫茶店に入って食事をしようとしたところTVが事故を報道していました。
娘の旦那が航空会社なので情報を持っていると思って電話したが、東京へ出張中で、現地に行くように指示されました。
病院に行ったら娘はベッドで手も足もつっている状態でした。
姉は重体、妹は重症だった。
救出されるところは見えたが、生きてているかどうか妻はどうなっているか判らなかった。
1両目に乗っていて、姉妹は手すりにつかまっていたが妻は通路のまん中に立っていて手すりにつかまっていなかったので、衝撃で人の密集の下に入ってしまった。
姉の証言では私の顎が妹の肩の上に上を向いてのっかかるような形になり、私のおでこには列車の天井に着いていた扇風機が壊れてあたっていました。   自分の手や足がついているのかどうか、どこにあるのかどうかさえも全くわからないような状況で、突然水の中の放り込まれたような息ができないような状況に一瞬にしてなりました。   右半身はシートとシートの間に挟まれ左足は人の間に埋まり宙に浮いていたようになっていました。 私の上に乗っかっていた人が引き上げられやっと息ができるようになりました。

タクシーで病院を4か所廻ったが、「亡くなった方は名前を書いていません」と言われた。
病院では死亡した人の顔写真を撮ってあったので見せてもらいました。
信楽町の町民体育館が遺体安置所になっていて、そこに行って遺体を見たら、顔がどす黒くて妻ではないと思って、一端離れてもう一度確認に行ったら、足元に妻の着ていた服がおいてあり、妻が着ていた服に間違いないと言うことが判り、亡くなってしまったことを確認した。

その日のうちに運輸大臣が来ていた。
信楽高原鉄道は関係者は全部来ていたが、JRの人が来たのは課長が一番上で幹部は来ていなかった。
1ヶ月後に合同慰霊祭があり、JR西日本の態度も遺族の間で問題になった。
角田達郎社長は「鉄道運輸事業に携わる一員として申し訳ない」といってJRという言葉を濁すわけです。
合同慰霊祭の直ぐ後の説明会にJRの社長は出てこなかった。
信楽高原鉄道は社長以下役員が出てきたが、JRは鉄道本部長がでてくる。
1回目の説明会でもJRは鉄道本部長は「鉄道事業者としてお詫びをしますが、JRとしてはお詫びをしません」とはっきりと言うわけです。  そんな馬鹿なことがあるかと私らは思ったわけです。
JRで買った切符でJRの車両に乗ったのに、何故JRが責任がないのかと思いました。
7月21日第一回目の遺族会が開かれて、JR西日本との長い戦いが始まる。
企業に立ち向かうのには弁護団が必要だと言うことになり、団体の先頭に立ちました。

信楽駅で信号が赤から変わらないままで、信楽高原鉄道の上り普通列車の出発が遅れていた。
安全を確保しないまま普通列車は赤信号を押して信楽駅を出発する。
普通列車が行き違いが出来る退避線にたどり着く前に、反対側から走ってきたJR西日本の臨時快速列車が退避線を通り過ぎてしまう。
単線区間に普通列車がいるのに、何故か信号が青になっていたのでJRの列車が進入してしまう。
何故信楽駅の出発信号が赤のままになったのか、向こうから列車がやってくるのに退避線の信号は何故青になったのか、行き違いの列車が退避線に居ないのに何故JRの運転手は
そのまま列車を進めてしまったのか、事故の日までに信号トラブルが相次いでいたのに、何故両社は原因を究明せずに放置したのかなど争点になりました。

事故から9年目に、信楽高原鉄道の社員2人と信号設備会社の1人が業務上過失致死罪などで執行猶予付きの有罪判決が確定。
JR西日本の関係者は誰も問われなかった、納得できなかった。
原因については全部が公表された訳ではなかった。
遺族は民事裁判で問うことにする。(1993年10月に大阪地裁に提訴)
鉄道安全推進会議(TASK)を立ち上げる。(1993年夏) 社会を動かす大きな一歩になる。
関西大学教授の阿部先生とか弁護士も入ってくれました。
事故の翌年、1992年12月に運輸省がやっと調査結果を発表するが、僅か12ページだった。
アメリカではNTSB(国家運輸安全委員会)があって、行政からも独立した団体で、事故の背景の人間的要素も調べている。
アメリカに行って3日間缶詰状態で話を聞くことが出来ました。
そこでは電車などの構造まで言及できる。(遺族の視点から安全な航空機や電車の車内の構造はこうじゃないかという事を言っていくべきではないかというそういう動きをしていることを教えてもらった。)
日本と違って進歩していることを直感しました。
調査内容もコピーして我々に開示もする。(大変な量なので持って帰れずに送りました。)

社会に訴えるために、1999年7月にシンポジュームが行われました。
来た人が400人ぐらいいました。(海外からも来ました。)
柳田邦夫さんとか関西大学の阿部教授なども参加されました。
欧米並みの行政、警察からも独立した、事故調査をする機関が必要だと言うことを世の中に発信できた。
信楽高原鉄道は安全性を高めた新型車両を導入することになる。
事故10年後、2001年に国土交通省に航空鉄道事故調査委員会が発足する。
次に事故が起きないようにするためには、どう言うことが必要なのかということに重点を置くことが大切。
2008年運輸安全委員会と言う組織に改組される。
鉄道安全推進会議(TASK)の実が結ぶことになる。
民事裁判ではJR西日本の責任も認めて遺族の全面的勝訴になる。
2003年3月15日にJR西日本の当時の南谷社長が謝罪する、12年目の謝罪となる。
その5月に13回忌法要があり、交替したばかりのJR西日本垣内社長が遺族の方に挨拶文を渡します。
「改めてご遺族の皆様にお詫びと御挨拶を申し上げます。
この事故は信楽高原鉄道列車と当社からの直通乗り入れ列車が正面衝突する大事故であり、直通乗り入れ運転ということに照らしてみれば、報告、連絡についてもっと両者が協議すべきではなかったのか、体制を整えるべきではなかったかなど、反省すべき点があり誠に申し訳なく思っております。
お亡くなりになられた方々に対して、お詫びしご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご遺族御被災者の皆様に長きにわたり御心痛をおかけしましたことを深くお詫びいたします。
この事故の尊い犠牲を教訓として、いま一度肝に命じ再びあのような不幸な出来事を繰り返すことのないよう、安全対策についてあらん限りの努力を傾注することが、我々鉄道事業者の使命であり、尊い御霊にお報いするせめてもの道で有るとの思いをひときわ深くいたしております。」(平成15年5月26日 JR西日本垣内社長)
良く書いたなあと、昔だったら全然考えられないようなことです。
当事者であったということも書いてあり、いろいろ反省のことが書かれている。
その手紙の2年後、2005年4月25日JR西日本では福知山線で107人が亡くなる脱線事故を起こします。
あの安全の提言は何だったのかと怒りを覚えます。
事故を亡くし安全を築いていこうと鉄道会社、社会と向き合い続けてきた吉崎さんは今年5月2日に亡くなりました。(84歳)