2017年5月30日火曜日

新村拓(北里大学名誉教授)      ・ほどほどの生を生きる

新村拓(北里大学名誉教授)  ・ほどほどの生を生きる
1946年生まれ、早稲田大学で学び、人の死、病、老い、看取りについて日本人がどのように考え対処してきたのかを研究してこられました。
医療技術の発達と社会制度の充実がもたらした高度の治療と延命、高齢化に直面している現代、新村さんはほどほどの養生によるほどほどの健康を得て生きることを生き甲斐とするのが理想ではないかと考えています。
ほどほどの生が何よりと言う新村さんのお話を伺います。

20代の半ばから生老病死を研究するようになりました。
中学生のころから自分がどう生きたらいいのかと言う、生きることの意味について非常に悩みました。
勉強しなくなって本を乱読しました。(年間300冊ぐらい)
大学を受けようとしたときに、農業しながら晴耕雨読ということを考えて農学部を受けたが落ちまして浪人生活に入りました。
哲学をやろうと思ったが裏付けがない、頭でつくりだす。
過去には人が自分なりの結論を出し死んでいった人たちが何か書き遺したものはないかと調べてみようと思って歴史を選びました。
生老病死を考える様になりました。
病気の時にどういうふうに考え、どういう行動をとったのかを調べ始めました。
医学史、医療史との分野にも入ってゆくわけです。

古代は不老長寿を理想として、中国の道教の思想が強かった訳ですが、平安時代の半ばぐらいになると、来世の思想「欣求浄土」極楽の世界を目指すと言う仏教の教えが非常に影響力を持ち始めます。
鎌倉、室町時代に成ると今までの不老長寿は否定されてくるようになり、長く生きたところでそんなに意味があるのかと、一人だけ取り残されてしまう事に成る、それよりもその日その日を大事に生きると言うことの方がいいという教えが出てくる。
それぞれの年代ごとに課題を設定しろと、それを一つ一つクリアしていけば後で振り返った時に自分の人生は充実していたと、そういう思いを持って死ねる、それが人生生きることの最大のいい生き方であろうと云うふうに変わってくる訳です。
江戸時代になると、儒教の考え方が非常に強まってきて、長生きすることは重要だと云うことで養生に努めることになる。
歳をとって人の道が成就する、老熟、人道の成就、人間の価値は老熟すること、人格の完成が生きる事の人としての目的なんだと云うことで、長生きしないと意味がないということに成るわけです。
また自分を産んでくれ親に孝行を尽くさないといけない。
親孝行するためには長生きしないといけないと云うことが言われるわけです。

養生の考え方は元々中国が源泉で、それが古代に入ってきて受け繋がれ、養生の事について書いている、貝原益軒はそれらを集大成した。
その後も養生論が出てきて内容も変化してきている。
長生きのためには日々の生活を律していかなければいけない、そのためには3つある。
①好色を慎まなければいけない。
②食欲についても慎む必要がある。
③寝ることを慎む。
欲を抑えることによって疲れもしなくなり、体調も良くなり、長生きできるということになる訳です。
自分の体は先祖から受け継いできているものなので、大事に次の世代に受け継いでゆく必要があると言うことも云われる訳です。

江戸時代の半ばから後期にかけて、長生きしてもボケてしまえば意味がないと云うことになる、ほどほどの所でいいのではないかということになる。
養生もほどほどということになる。(生活が楽しめない)
ほどほどに養生してほどほどの所で死ねばいいということに成る。
江戸時代の初めは大家族制(奉公人含め15人とか)、それが小家族制(5~6人)に移行して行く。
介護が必要になると手がないから大変で、放っておかれてしまって、そういうのを見ると迷惑をかけるし、老醜をさらすことに成り、ボケる前のほどほどにということに変わってくる。
幕末に成ると健康なんてない、十全健康と云うものはあり得ない話だと、帯患健康が普通なんだと、多少病気があっても日常生活で折り合いをつけて、不便も感じない、それが健康なんだと変わってくる。

明治を迎えると儒教思想が無くなり、生理学を裏付けとした健康論に変わってくる。
富国強兵、国のために、公益のために、と重心が移って来る。
国の為健康が強制されるようになる。(健康チェックがいろいろされるようになる)
現代は強制される健康、医療費削減という大前提のもとに自分で健康を管理する、健康の自己責任と云う事が言われ始めている。
迷惑をかけないということは非常に重要な徳目に成っているわけです。
どの程度ならいいのかということですが、貝原益軒は100歳が人間の限界だろうと云っていますが、ほどほどの限界は60歳まで生きれば結構だろうといわれる訳です。
跡取りにまかせ楽隠居が人生の目的だと、いろいろな事に縛られないで自由に生きる、それが60歳代だといわれる。

だれでも自分が住み慣れた所で最期を終えたいと云う希望はある訳です。
1990年代の終わりごろの全国調査で在宅死を希望したお年寄りが8割、今は6割を切っているようなところです。
1951年では8割が在宅で亡くなっていたが、1977年病院死の方が増える、現在は8割が病院死、在宅死が13%、7~8%が老人ホーム老人施設で亡くなっている。
希望と現実の違いが6割ぐらいあった。
在宅死を支えるのにはどうしたらいいかということを、研究のテーマとして沢山の人に協力をいただいてやっています。
歴史を踏まえて考えていった場合に、以前は家で看取る為の技術、知識を持っていた為に、家で看取れた。
病院で死ぬ方が増えて行って、77年以降は病院死が増えて行き8割程度に成り、家族地域の人たちの中から看取る為の知識、技術が無くなって行く。

20年前ぐらいから医療費が増えて行くなかで、なるべく病院にかからないように、病院で死なないように家でという方向性が打ち出されるが、知識、技術がないのでまだ家で看取る覚悟がない。
本人が家で死にたい、それを支えるためには看取りのための知識、技術を家族、地域の人達がふたたび取り戻す必要がある。
そのためには高校の授業の中で教えればいい。
昔は家政学の授業の中で、末期の症状はこうなんだ、どうすればやすらぐとか、死亡の確認はどうすればいいかとかを教えるわけです。
昔は高齢者が25%、75%は若い人が死んでいる、乳幼児の死亡も多かった。
今は亡くなるのは年寄りは9割です。

死というものに対して受容する能力が以前は高かったが、今は看取りの技術、知識も無くなって全部病院任せに成ってしまっている。
だから高校の授業で教えればいい。
人間が歳をとって死ぬと云うことはどういう状況に成って死ぬのか、ということを家族が見ることによって、人生を学べる訳です。
限りある時間の中で自分の人生を燃焼し尽くすと言う気持が湧いてくるわけです。
2000年から介護保険が始まり、それがあり助かりました。
父の介護で母と12時間ずつ担当する訳ですが、一番困ったのは人手であり、大変でした。
地域包括ケアシステムが出来つつある、医療機関、介護施設、その他の施設を統合連携して在宅で継続的に安心して療養生活が出来るシステムを立ち上げようとしているが、それは結構なことだと思います。

地域で見て行く体制、地域のかかわりが薄くなってきているので、もう少し昔にかえって見てみることも必要なんだとは思いますが、家に入ってきて他人に介入されることも厭と云うこともあります。
戦前は地域の人が家に入って結婚葬式など手伝うことがあり、その延長で看取りがあったわけです。
一日一日しっかり生きていれば何時死んでもいいという気持ちになれる訳です。
それぞれの年代ごとに目標を決めて課題を設定して、一つ一つ課題をクリアしてゆくと言う計画的に人生を生きると言う生き方をしていれば、そんなに死を恐れる必要がないかと思う。
「ほどほどの養生でほどほどの生を」ということですね。