2017年5月26日金曜日

髙木聖雨(書家)         ・父に反発、でも同じ道

髙木聖雨(書家)  ・父に反発、でも同じ道
3月に28年度の日本芸術院賞恩賜賞を受賞しました。
父親は岡山県の高木聖鶴さん、かなの書家で平成25年に文化勲章受賞し、日展の顧問でもありました。
今年2月93歳で亡くなりました。
家庭的ではなった父に反発して、書家にだけはならないと心に決めて会社員を目指していました。
しかし大学受験に失敗、ふと書に掛けてみようと言う思いが湧きあがって、書の道にすすむ人が多い大東文化大学に入学、青山 杉雨(あおやま さんう)さんに師事しました。
大学卒業後は、都内の高校の非常勤講師、平成12年に大東文化大学の書道学科非常勤講師、平成23年からは教授として多くの若者を指導したり、自らの作品作りをしたりしています。

日本芸術院賞恩賜賞を受賞したことは大変な喜びでした。
作品に対してはこれが最後の賞なのでこんな喜びはないです。
67歳ですが、80,90歳になるまで書道の世界のために働きなさいよと言う激励の賞でもあると思います。
父親が芸術院賞を受賞した時には意識がなくて、耳元で受賞してきたことを報告しました。
天井を紙に見立てて意識のないまま手をあげて天井に字を書いて居るしぐさを、亡くなる4、5日前やっていました。
父は会社員だったが20歳のころから書道が好きで、書の道を選んだと聞いています。
本格的に始めたのは40歳の後半で、会社を辞めて書道の道一本に絞ったようです。
書壇で頑張るには2足のわらじは難しいのでけじめをつけたんだと思います。

岡山県 昭和24年生まれ。
一人っ子で、普通の子でした。
父が書道塾を開いていて、近所の子と1~2年やりました。
野球が好きだったので中学の時に野球部に入りましたが、親の介入があり退部届が出て居て、悔しくてより反発する時期でもありました。
父親は会社から帰って、6時ごろから自分の部屋に入って夜中の2時頃まで字を書いていて一切顔を見せなかったので親子の対話は高校時代までなかったです。
10時間ぐらい字を書いていました。
当時は何処へも父親には連れて行ってもらうことはありませんでした。
父親に対しての反発は強かったです。
高校時代はサラリーマンに成りたいと思って勉強したんですが、どこにも入れず浪人しました。
浪人のときはパチンコ、マージャンをやったりしていまして、あるきっかけで書道をやろうと決めて、父親に言ったら拒否されて、「書道でもやろうか」という「でも」が良くないと言われて、本当にやるのなら「でも」を撤回しなさいと言われました。

父から「やるんだったらどうぞ、一切手助けはしない」と言われました。
大東文化大学に入学しました。
書道を徹底的にやろうと決意しました。
全くゼロから始めるので周りの人たちに追いつくのには、千倍も努力しないと追いつけないという気持ちも持ちましたし、書道に関する言葉も判らず初めて父親に聞きました。
大東文化大学の書道部だけで400人ぐらいいました。
仲間がたくさんいると言うことが、頑張れる導引になったと思います。
入ってすぐに青山 杉雨(あおやま さんう)先生に師事しました。
手あかが付いていない状態だったので、先生に言われたことはすぐ実行できる立場にあったので、書道をやっていなくて逆によかったと言うのが実感です。
父の事は先生には黙っていましたが、2年間休まず励んだので父も本気でやりそうだと感じて父が先生にお会いして初めて挨拶しました。

漢字を始めて漢字をマスターした後でかなに転向する人がほとんどで、漢字の書けないかな作家はかな作家ではないと言われている。
父親がかな作家だからいずれ岡山に帰ってかな作家をやるんだろうと先生は思っていたようですが、かな作家をやるつもりはありません、一生先生の元で漢字作家をやりますと言ったときに、先生の眼の色が変わって、本気で鍛えてやろうと思ったんだと思います。
大学4年間で先生に名前を覚えてもらえない人が結構いるほど生徒もたくさんいました。
青山先生の授業は3年にならないと受けられなくて、1週間にひとこま習うだけで、それだけで上手くなるはずはなくて、人の何倍もやらなくてはいけない。
4年生までで100人以上青山先生には弟子がいまして、熱心に指導していただきました。
父はかなの世界、私は漢字の世界に入ってゆくわけですが、「富士山を表から昇っても裏から昇っても頂上では一緒になれるから、お互いが違った道でも頑張ればいいんだ」と父の文章に書いてあって、なるほどなと思い立派な考え方だと思いました。

親子展は35年ぐらい前に岡山でやりましたが、親子という関係は表に出さずにやりました。(1回のみでした)
朝日20人展で20人選んでもらう訳ですが、それが2回目の親子の共演だったかもしれません。(4作品ずつ出展)
相当親に反発して親に迷惑かけたりして、母親をいじめてしまったこともありますが、今はよく頑張ってくれたと母は思ってくれていると思います。
日本芸術院賞恩賜賞を受賞出来たのは両親のお陰だと思います。
都内の高校の非常勤講師、平成12年に大東文化大学の書道学科非常勤講師、平成23年からは教授となりました。
書道の世界としては順調に来たように思います。

書道人口はかなり減っています。
書というものに対して理解を一般国民に知らしめて居ないと言うことがあると思います。
毛筆を1年生からやらせるようにと言うことが、文科省の方針で許可された様で書道の盛んなところに持っていける一つの要因になると思います。
日本の書道文化をユネスコの世界向け文化財に登録しようと言う運動をやっていて、登録されれば書道に目を向けてくれる人が多くなると言うこともあると思うので僕のライフワークとして一生懸命やらないといけないと思っていますが、非常に将来を心配しています。
90歳の人も頑張ってやっているので、その年代に成るまで自分の技術を高め精神性も高めていい書を書きたいと思っています。
技術は自分で努力しないといけないものなので、相当根性が坐っていないとだめだと思います。
父は書道が大好きだった人なので、尊敬しています。
書道の世界での戦友のような気持が、父が亡くなった時に涙を流させた様に思います。
10時間も書を書いて努力をしていた親の背中を見せてもらって、本当に感謝しないといけないと思っています。