2014年5月5日月曜日

ホキ徳田(ミュージシャン)      ・自由人生に乾杯!(1)

ホキ徳田(ミュージシャン)         自由人生に乾杯!(1)
京出身、高校卒業後カナダに留学、ピアノ、作曲、美術を学びました。
帰国後歌手、女優として、映画、やTV等で活躍しましたが、昭和40年アメリカに旅だちます。
アメリカでの暮らしの中で文豪ヘンリー・ミラーと結婚しました。
現在は東京六本木で弾き語りをしています。

日本に還って来てから20年近く、夜人間ですね。 
弾き語りをするので、又酒が好きなので
スタジオにはヘンリー・ミラーさんのゆかりの絵とかが、沢山並んでいるが、彼とは最後の妻なので、メモリアルみたいなものを造った方がいいのではないかと、思った。
「ヘンリー・ミラーの8人目の妻」 30年目に週刊誌に連載したものを纏めた。
ヘンリー・ミラーさんとの結婚は、普通の結婚を飛び越えた、おじいさんと孫娘と言った感じだったので、ぎとぎとした恋愛、夫婦関係、子作りとは無いので。

出会いのきっかけは卓球だった。
3回オーディションを受けたが、3回目の時に英語が出来て、演技ができる、ピアノが引けて、歌が歌えるということで、ハリウッドを受けて見ればと言う事で、行った。
卓球ができるなら任してもらいたい、おじさんがいるので、誰とも知らないで、知人のお宅でお会いする事になる。
卓球で出会った途端に、僕のフィアンセだとか言った。
「北回帰線」 発禁になって、とけたのが1960年ぐらいで、日本で初めて13冊全集を出して、日本はなんて素晴らしい国だと思った、見たことないし、エキゾチックで、丁度その時だった。
結婚まで、2年があって、結婚。

私の場合は7番目の妻だった。 
後で調べたら10代で駆け落ちしている、中には離婚していない人がいて重婚罪で、やりなおした。
東洋が好きだったのは確か、日本の古風で雅やか、にあこがれていたことは確か。
ハリウッドで仕事をしていると、来るようになって、話はできなくて手紙を都度送ってくれた。
年齢は50歳近く離れている。
ヘンリー・ミラーは父と文通するようになった。
NHKの論説委員をやっていたが、その前は国際連盟で英語、ドイツ語ができるので、「将を射んと欲せば、馬を射よ」ではないが、文通していて、最終的に私が折れたのは2年経ってからです。

ヘンリー・ミラーは日本に行きたいと言いだした。
いろんな人と話し合った結果、家に住み込んで、同棲みたいな感じで、ベッドを共にしないとか、最終的には結婚と言う形を取ろうと、言う様になった。
有る意味打算と愛情といろんなものが一緒になって、結婚した。
ジャンヌモローとか、レスリー・キャロンとか、エリア・カザン とかが毎週の様に家に来ていたりして、映画で見る様な人が家にきたりして、私を彼が見せびらかす。

日本のマスコミは避けるように彼は指示していたが、吉行淳之助さんとか五木寛之さんとかは会いに来てくれた。
二人とも金銭感覚はゼロ、アーティスティック 
人を見る目 金持ちとか何も知らないのに偉そうにする人を見抜く目は有ったようです。
何ともいえぬ駄目なところが、似ている。 歳はすごく違うのに感覚が似ているところがあった。
話題は豊富だった。
彼の本をあまり読まないから、そこだけが彼は許してくれたこと、後は判りあえた。
「ホキ徳田」は彼が持っている贅沢品だと、彼は記者には言っていた。
彼の家にはいつも外国の記者とかが出入りしていたので、家を借りたが、別居したとか騒がれたが、必ず一緒にご飯を食べたりしていた。
本当に離婚したいと思ったのはバーをやりたいと思った。
花屋、ギフトショップをやりながら別居生活をしていたが、失敗すると彼に迷惑がかかるので、バーをやるときに、私の方から離婚してくれと言ったが、そのあと1年半後に亡くなったので、後悔はしている。

ヘンリー・トニーと言う一人息子がいて、その人が結婚した。
その人のお母さんが会計士と弁護士をやっていて、ヘンリーのずさんな生活ぶりを整理し始めたが、ホキ徳田は何だと言う事もあり、別々に住んでいたし、離婚の一因ともなった。
ヘンリー・ミラーは88歳で亡くなる。
もっと面白いことができたのにと、悪かったなあと思う部分がある。
ヘンリー・ミラーの絵が好きなのでずーっと一緒にいたいと思います。